2021年3月31日水曜日

●西鶴ざんまい #5 浅沼璞


西鶴ざんまい #5

浅沼璞
 
 
 鸚鵡も月に馴れて人まね       西鶴(脇) 
役者笠秋の夕べに見つくして      仝(第三)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

まずは第三の式目チェックを軽く。
 
季語は脇の「月」を受けて「秋の夕べ」、句末は「て留」でお定まりのパターン。
 
なるべく句またがりを避けるという類の口伝もクリア。

 
さて西鶴は自註で「第三に芝居の楽屋帰りの気色(けしき)を付けよせける事、前の鸚鵡の鳥を……小芝居の見せ物にして……」と記しています。

つまり第三の役者ネタの付けは、前句の鸚鵡を見世物小屋(小芝居)の出し物と見立て、界隈の役者の、楽屋から帰る編笠姿へと連想を広げたものというのです。前句の場所を芝居町と見定める其場(そのば)の付けですね。

 
当時の見せ物小屋ではクジャクやオウムの出し物が人気を博しました。その見世物小屋と双璧をなしたのが歌舞伎の芝居小屋です。

この頃の歌舞伎は早朝に始まり、日没まで上演されました。舞台照明などなかった時代ですから、日が沈めば幕となり、その後、歌舞伎若衆たちは芝居小屋近くの茶屋で色を売りました。(拙著『西鶴という鬼才』新潮社)

「役者笠」とは顔を隠す外出用の笠で、今ならお忍び芸能人の帽子やサングラスみたいなもの。それを夕刻に眺めつくすファンの視点から、第三は詠まれているわけです。
 
 
管見の範囲では諸註も以上のように解しているようですが、果たしてそれだけでしょうか。

脇では例の「飛ばし形態」を駆使し、疎句のトレンドにのった西鶴のことですから、自註に書かれていない付筋がどっかに潜んでいたとしてもおかしくはありません。

で、あれこれ調べてみると、ありました、ありました。「鸚鵡→役者」には、談林的な連想経路が別にありました。 
 
 
たとえば『歌舞伎事典』(平凡社)の「鸚鵡」の項を繙くと、演出用語として次のように書かれています。
 
「歌舞伎で主要な役が引込みの時などに、派手なしぐさや利きぜりふをいったあとから、三枚目の役がその通りの真似をして観客を笑わせる演出」(山本二郎)

これに続いて《御所の五郎蔵》や《法界坊》における「鸚鵡」の演出例が引かれています。
 
が、残念ながら、いずれも西鶴在世の元禄期より後年の作。江戸時代は長いので早合点はなりません。(たとえば連句で使う「捌」などは江戸末期以降の語だったりするんで)
 
 
で、慎重にとなりへ目を転じると演出用語「鸚鵡」から派生したと思われる「おうむせき 鸚鵡石」という項目があり、
 
「歌舞伎の名ぜりふ集。役者の声色(こわいろ)をするのに便利なようにせりふを抜粋して載せた小冊子。古くは寛文・延宝(1661―81)頃からはじまる」(近藤瑞男)
 
と書かれてあります。

果たして鶴翁の時代から「鸚鵡」という演出用語は使われていた、としてよさそうです。

ましてや談林俳諧と歌舞伎はとても近しいジャンルで、西鶴門にも梨園関係者が少なからずおりました。芸名とはべつに俳号を持つ連衆さえいたわけですが、それだけではありません。鶴翁には役者ルポの評判記や役者を主人公にした浮世草子までありました。そんな彼の頭に演出用語としての「鸚鵡」が浮かばなかったはずはありません。 
 
 
しかしそれをダイレクトに使っては談林まるだし。元禄正風体にのろうとする老西鶴としては「飛ばし形態」を駆使したいところです。
 
ということでシン・ゴジラ式にその過程をメモれば――

  声色をする名ぜりふ秋暮れて 〔第1形態=声色くん〕
    ↓
  役者笠秋の夕べに見つくして 〔最終形態=見尽しさん〕

「鸚鵡石」を片手に、名ぜりふを真似る声色くんが、追っかけファンの見尽しさんに成長し、芝居町にくりだす、という趣向です。ええやろ。

(最終形態は第一形態の句またがりをクリアしてもいますね)
 
 
なお前回の脇では第1形態・第2形態を想定しましたが、「飛ばし形態」の句数を固定化することはできません。なぜかといいますと、「飛ばし形態」は自註と最終形態とのギャップを埋めるための仮説なわけで、そのギャップ度はもとより一定ではないからです。たとえば自註と最終形態がニア・イコールの場合も想定され、「飛ばし形態」をせずとも元禄正風体に早々と育ってしまうジャイアント・ベイビーみたいなケースもあり、かと。

成長スピードがいろいろなら仮説だっていろいろ、人生いろいろ。
 
 
以上、ここまで「付け」の要素に関していろいろと迷走し、鶴翁の人生さながらの展開となりましたが、ご承知のとおり人生では……いや、連句では「転じ」の要素が同時にはたらきます。

次回は発句・脇・第三における「三句の転じ」についてみていきましょう。
 

2021年3月29日月曜日

●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵



相子智恵







囀りの影といふ影天降(あも)りくる  岡田一実

句集『光聴』(2021.3 素粒社)所載

春の空には繁殖期の鳥たちが囀り、行き交う鳥たちの影が、天から地上に降りてきている。

降りてくるのは影だけではない。影がくっきりと降りてきているのだから、春光はそれ以上に燦燦と降り注いでいることだろう。〈影といふ影〉という言葉によって、影が点描のような効果をもたらしていて、逆説的にまばゆい光が感じられてくる。そしてもちろん、天からは鳥たちの〈囀り〉もまた、降り注いでいるのだ。

この句が視覚的に見せているものは、実は「影」しかないのだということを忘れてしまうほどに、影から連想される光や鳥たちの囀りの賑やかさ、「天降る」という万葉時代の神々しい言葉の選択によって、一句が瑞々しく賑やかな生命力を帯びている。

鳥そのものを描かずに鳥たちの恋の喜びを、ひいては春が来た喜びを、影と声だけで多面的に描き込んだ、祝祭的な気分のある一句である。

2021年3月26日金曜日

●金曜日の川柳〔根岸川柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






都合のつきそうもない顔だな蠅

根岸川柳 (ねぎし・せんりゅう) 1888~1977

「都合のつきそうもない顔」はすぐに思い浮かべることができる。誰もが見たこともあり、一度はしたこともある顔である。見落としがちな、取り立てて言うほどでもなく、ちょっとおかしく、ちょっとかなしい。そんな顔をさらりと、けれども充分に想像させてからの「蠅」の登場である。蠅で意表をつく。読み手が想像していたのは人の顔であり、蠅はまったくの想定外。いままで蠅をそんな風に見たことがないのに、確かにそうだと思う。

蠅の顔を「都合のつきそうもない顔」とどんと切り出して、意外なほどの説得力をもたらす。固定した見方に絞ることで、蠅をクローズアップして、自分の世界に引き込む。蠅はそのふてぶてしい顔で、人と今と対峙している。そう思うとなぜかほっとして、安心する。

2021年3月22日月曜日

●月曜日の一句〔照井翠〕相子智恵



相子智恵







三月や何処へも引かぬ黄泉の泥  照井 翠

句集『泥天使』(2021.1 コールサック社)所載

東日本大震災で被災し、震災を詠み続ける照井氏の最新句集より引いた。句集名の『泥天使』もそうだが、本句集には泥を詠んだ句が多い。

黒い津波が多くの人々と生活を攫い、そのかわりに残していった一面の泥と瓦礫。生きる場所を立て直すのにまず取り除かなければならなかった一面の泥の色と匂い……それがもたらす絶望感を思う。

掲句、毎年巡りくる震災の日。生者の側はすでに整備され、あの日々の泥は跡形もないが、しかしあの日、泥水に呑まれた死者たちのいる暗い黄泉の国の泥は、十年間〈何処へも引かぬ〉ままなのである。

他の泥の句にも触れてみたい。句集名の『泥天使』の元になった句、

 三・一一死者に添ひ伏す泥天使

は〈何処へも引かぬ〉泥の中に〈添ひ伏す泥天使〉を見て、率直に死者への鎮魂と祈りを描いている。

 まづ雪が弾く再生の泥ピアノ

 また春が来るのか泥に沈むのか

 降りつづくこのしら雪も泥なりき

十年間繰り返し詠まれる泥からは、沈む思い、鎮魂の思い、再生・復興の願いなど様々に揺れ動く作者の感情が透けて見える。泥のようにぐにゃぐにゃと、思いは揺れ動き、乾くことはない。

 滅亡の文明ほどに土盛らる

逆に、乾いた硬い土の句には自身の故郷、ひいては生者の自己を批評的に見ているように思う。かさ上げした土地と、やがて滅ぶ古代遺跡が重ねられる。

 三月の君は何処にもゐないがゐる

〈ゐないがゐる〉の思いが、泥の句の揺れの根っこにあるものではないだろうか。割り切れぬ泥への思い、それでも心に多くの死者を、ひとり一人〈ゐないがゐる〉と思い続けて前へ進むこと。思いを揺れ動くままの泥としてもち続けることはしんどいが、それでも詠み続ける人がいる。

 震災五年時は薬よ毒入りの

五年の倍、十年が経った。被災していない私ができることは何だろう。少なくとも私の側が「時薬」をはき違えて勝手にけりをつけてはならない。心に泥をもち続ける表現者の俳句を、これからも読み続ける。

2021年3月21日日曜日

〔俳誌拝読〕『俳誌五七五』第7号

〔俳誌拝読〕
『俳誌五七五』第7号(2021年3月15日)


編集発行人:高橋修宏。256mm×161mm。本文32頁。3氏の俳句作品各15句。打田峨者ん「だ。それは」、高野公一「芭蕉・「軽み」へ」、今泉康弘「シジョンとムリオ」等、論考・エッセイにページを多く割く。

以下、俳句作品より。

虫けらも我も野で泣く昼の星  増田まさみ

仮綴じの光に眩む厚氷  三枝桂子

燕子花踏みにじられて匂ひけり  松下カロ

(西原天気・記)





2021年3月19日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田健治〕樋口由紀子



樋口由紀子






ある桜扁桃腺を病んでをる

吉田健治 (よしだ・けんじ) 1939~ ※吉は土

今年は全国的に桜の開花が早いらしい。地球温暖化で年々早くなっている。コロナ禍の中でも今年も桜はきれいに咲いてくれる。桜にも病はあるだろうが、まさか扁桃腺になるわけはない。しかし、作者はこの世の道理や法則だけでは通じないことを感じ取ったかのように桜を眺めている。

「扁桃腺」というのが微妙。本人的にはつらく、違和感をたえず抱えるが、傍目には見えにくく、わかりにくい。桜特有の病気であったのなら、ふーんと通り過ぎていっただろう。「ある桜」というのもポイント。すべての桜ではなく、特定の桜に感情移入している。自分と同じにおいを嗅ぎとったのかもしれない。視線がとても新鮮でナイーブである。『青い旗』(2013年刊 抒情文芸刊行会)

2021年3月17日水曜日

●コモエスタ三鬼41 東京タワー

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第41回
東京タワー

西原天気


東京タワーという昆虫の灯の呼吸  三鬼(1960年)

港区芝公園に東京タワーが建ったのは1958年12月23日。わずか2年後、まだ新築のぴかぴか状態のときに詠まれたことになる(『変身」収録)。わざわざ「新品」状態のことを言ったのは、昆虫が連想されるのは、鉄の建造物がある程度古びてからのこと、というアタマがあったから。

例えば、川崎浮島あたりのコンビナートが灯をともす夕暮れから夜。あれに昆虫を思うのは、造形よりも質感、それも年月を経た質感が大きい。

けれども、建造後わずか2年のこの電波塔にも昆虫との相同を見出したのは、先見なのか、あるいは造形寄りの把握なのか。

いずれにせよ、最後の「呼吸」でこの句は昇華する。視覚的相同をその場の空気が包み込む。

街が息づく、人工物が息づくことの近代的な描写を見せてもらい、60年前の都市の一角で、遠景の、あるいは目の前の、あるいは見上げる東京タワーと息を合わせるかのような感慨・感傷があわく灯る。


※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
 

2021年3月16日火曜日

〔人名さん〕カフカ

〔人名さん〕カフカ



小官吏なりしカフカや地虫出づ  斉田仁



2021年3月14日日曜日

〔俳誌拝読〕『オルガン』第24号

〔俳誌拝読〕
『オルガン』第24号(2021年2月22日)


B6判、本文48頁。特集は「鴇田智哉『エレメンツ』」。青本瑞季、関悦史、樋口由紀子、山口昭男によるレビュー、田島健一、福田若之、宮本佳世乃、西村麒麟、八上桐子による座談会より成る。

以下、同人各氏の俳句作品より。

大年の満月風が強く吹く  宮本佳世乃

会うと鍵ひかりに変わり冬の水  田島健一

目をあけて近くて冷たさうな雲  鴇田智哉

第一章とマフラーと第二章  福田若之

(西原天気・記)



2021年3月13日土曜日

〔柳俳誌拝読〕『Picnic』No.2

〔柳俳誌拝読〕
『Picnic』No.2(2021年3月1日)


野間幸恵・石田展子編集。収録は川柳および俳句。147mm×147mm、リングバインダー綴じ、本文76頁・横組のユニークな造作。

整列のひとつ餡子をはみ出して  広瀬ちえみ

嘶きに憤りつつうどんすき  岡村知昭

術式は多血ツ手と何ぬね野かな  榊陽子

水槽に回送電車きて静か  月波与生

紅梅白梅世にめずらしき足の裏  大下真理子

憂鬱な機械焼芋吐き出しぬ  木村オサム

初雪へ金管楽器あけはなつ  妹尾凛

百円を入れると生家動き出す  樋口由紀子

春あけぼのギリシャあたりを逆上がり  中村美津江

老衰というやわらかき水の地図  石田展子

月曜は記紀うつくしく立ち上がる  野間幸恵

(西原天気・記)





2021年3月12日金曜日

●金曜日の川柳〔中島生々庵〕樋口由紀子



樋口由紀子






子猫ぞろぞろみな宿命の顔かたち

中島生々庵 (なかしま・せいせいあん) 1898~1986

子猫が生まれたときの感慨だろう。あどけない子猫の顔を見ていると、そんな思いがぐっと押し上がってきたのだ。猫は一度に多くの子猫を出産する。DNAが同じだから似ているが、同じ顔は二匹とおらず、微妙に違う。顔かたちが可愛いから、顔かたちが気に入ったからと子猫はそれぞれのところにもらい受けられていく。それによって、子猫たちの人生はおおかた決定する。

どこでどう飼われるのか、どんなふうに生きていくことになるのか。子猫自身にはどうすることもできない。誕生の喜びやめでたさとは別の気持ちが入り組んでいる。「ぞろぞろ」の描写の臨場感、「宿命」という直球すぎるほどの直球の一語は決して新しい見方ではなく、既知のものである。野暮なほど実直に意味をまっすぐに投入している。

2021年3月11日木曜日

●木星

木星


麗しや天の河といひ木星といひ  京極杞陽

風邪ひいて木星の重さだろうか  五島高資

木星の離れてゆきし扇風機〔*〕  亀山鯖男


〔*〕短歌俳句誌『We』第11号(2021年3月1日)より。



2021年3月10日水曜日

●西鶴ざんまい #4 浅沼璞

西鶴ざんまい #4

浅沼璞
 
日本道に山路つもれば千代の菊     西鶴(発句)
 鸚鵡も月に馴れて人まね        仝(脇)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

本来なら脇から第三へすすむところですが、前回を読みかえしてみると、我ながら紆余曲折が多く、うまく話を続けられそうにありません。(すーさんやゲン君からは好意的なメールをもらいましたが)
 
で、前回の内容を整理しつつ、ちゃんと仮説をたてて出直すことにしました。ついては少しく俳諧用語を(その解説もふくめて)使っていきたいと思います。ご寛恕のほどを。


自註で西鶴は、「千代の菊→紅葉の錦」というような貞門調の付き過ぎを嫌って「鸚鵡」の脇を付けたと言っています。これは縁語によるベタ付け、つまり親句(しんく)を避けて、前句と距離をおいた疎句(そく)を試みたということになります。

疎句はこの頃のトレンドで、元禄正風体と呼ばれる俳風でした(蕉風と同じ読みで紛らわしいのですが、蕉風もまた元禄正風体の一つと考えられます)。


〔以下、仮説〕
かつて談林の親句で俳壇を席巻した二万翁こと西鶴は、久々に復帰した俳壇の、その新たな作風に馴染もうとしていました。

しかし根っからの談林レンキスト西鶴はなかなか疎句付けができません。発句はどうにか仕立てても、脇からつまずく始末。
 
そこで思いついたのが、縁語をたよりに親句を連ね、途中の連想経路を飛ばす談林式テクニック「飛び」。
 
「これならわいかてでけるでぇ」と調子にのり、「千代の菊→菊酒→杯→鸚鵡貝→鸚鵡」と縁語を連ね、一句一句の付けを試みました。
 
シン・ゴジラ式にその過程をメモれば――

  月をうつせる鸚鵡杯   〔第1形態=鸚鵡杯くん〕
     ↓
  鸚鵡もまねる月の杯   〔第2形態=物真似くん〕
     ↓
  鸚鵡も月に馴れて人まね 〔最終形態=月馴れさん〕

まずオウム貝の殻が杯になることから「菊酒→鸚鵡杯」と連想し、杯に月の座をうつしたのが第1形態。その第1形態の「うつせる」を「まねる」と推敲し、鸚鵡に命をあたえたのが第2形態。つまりオウム貝の杯が月をうつすように、外国産の鸚鵡が日本語をまねるという付筋で、月=日本語という等式が浮かびあがります。
 
で、その等式から、鸚鵡も月(=日本語)に馴れるとしたのが最終形態。
 
このように発句にある「日本」という言葉を使わずに「日本語」を暗示するレトリックを、談林では「抜け」といいます。前回、「杯」の抜けのみを指摘しましたが、より本質的には「日本語」の抜けこそ最初に指摘すべきだったかもしれません。なぜなら「日本語トレーニング」の抜け(暗示)が成立しなければ、発句の「日本式計算方法」に対する対付にはならないからです。対付でなければ脇としての疎句的価値も低くなるでしょう。


さてニックネームの方をたどると、鸚鵡杯くんは物真似くんに変態し、最終的には成体の月馴れさんになるわけですが、月=日本語を念頭におけば、月馴れさんは日本馴れさんということになり、発句の日本道さんと「日本」ペアになるわけです。めでたいやないかい。

親句の成長過程を飛ばせば、疎句の成体だけが残るのは道理で、ひとっ飛びに成長するこの俳テクを、飛ばし携帯ならぬ「飛ばし形態」と呼んでみるのも一興かもしれません。


これで首尾よく疎句付けとなったわけですが、「飛び」や「抜け」の談林ワザをダブル使用したなどと得意の軽口でネタバレするわけにはいきません。「二万翁いうたかて談林くずれやなぁ」などと若手俳諧師から陰口をたたかれかねませんから。

で、「さらりと何気のう付けただけやねん」とうそぶき、「何ぞといへば何の事もなく付け寄せけるを、皆人好める世の風儀に成りぬ」と自註を〆た鶴翁。

かつての談林ワザを逆手にとり、元禄正風体というトレンドを負った最晩年の西鶴がここにいます。


以上の仮説を前提とし、次回は第三にトライしてみましょう。

2021年3月8日月曜日

●月曜日の一句〔対中いずみ〕相子智恵



相子智恵







舌しまひ忘れて猫よ桃の花  対中いずみ

『シリーズ自句自解ベスト100 対中いずみ』(2020.11 ふらんす堂)所載

元は句集『巣箱』に収められた句だが、自句自解の本書より引いた。

掲句に添えられた文章には〈モモちゃんだから桃の花です、とは言えなかった〉とあって笑ってしまった。飼い猫の名前からの連想なのである。

自句自解は、時に興ざめすることもある難しいものだが、この句は種明かしをされても不思議と魅力が消えない。〈桃の花〉の明るくみっしりと咲く、桜よりも鄙びた花を思い浮かべた時に、この呑気な猫(この舌は”猫あるある”だろう)の間の抜けた感じと、妙に響きあうのだ。

サイコロをどう振っても決まる時は決まる、そういう取り合わせの偶然もまた、俳句のひとつの面白さである。

2021年3月5日金曜日

●ついている【同音異句1】

ついている【同音異句1】

   compiled by 佐藤りえ

嘘ついている梨の実のみずみずし  森田智子

山笑ふ名のついてゐる池の鯉  村上喜代子

ついて消え今ついてゐる懐炉かな  阿波野青畝

わたしにはわたしがついてゐる淑気  正木ゆう子

秋の蚊にゆふぐれの血がついてゐる  鴇田智哉

坊ちゃんに清ついてゐる夜の秋  津川絵里子『夜の水平線』


lie
a.k.a.
fire
Allies
blood
part

2021年3月1日月曜日

●スボン

ズボン

エプロンの下よりズボン春の雲  皆吉司

花風に許して貰ふズボンかな  攝津幸彦

ズボンに手ジャケツの漁夫ののぼる岨  橋本鶏二

菩薩を感じつつだぶだぶのズボンで走る  四ツ谷龍