2021年4月26日月曜日

●月曜日の一句〔是永舜〕相子智恵



相子智恵







陽炎や角力(すまう)ゆさりと歩み出づ  是永 舜

句集『間氷期』(2021.4 書肆山田)所載

「角力(すまう)」は競技の呼び名としてのそれではなく、所謂「おすもうさん」と呼ばれる力士を指す。陽炎の中、大きな力士が、あるいは力士たちが〈ゆさりと歩み出〉してくる。陽炎という季語によって、国技館のような建物の中で行われるリアルな相撲を思い浮かべることはなく、白昼夢のような一句に仕立て上げられている。

陽炎がゆらゆらと揺蕩う中、白く福々しい力士が全身の肉を〈ゆさり〉と揺らしながら歩き出す。清めの塩を大量に撒きながら歩み出しているのかもしれない。塩もゆらめいている。陽炎から力士が生まれ出てきたようにも思えて、全体がゆらゆらと揺れ、眩暈を起こしそうになる。なんとも面妖な一句である。

2021年4月23日金曜日

●金曜日の川柳〔松本芳味〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼は泥の中にある 呼んでゐる

松本芳味 (まつもと・よしみ) 1926~1975)

泥の中に自分の眼が映っている。眼は泥の中に沈んでいきそうである。そして、私を呼んでいる。「呼んでゐる」と思うのはまさに私の心のありようである。泥の中に逃避すれば、楽になれるのか。今のこの辛い状況から抜け出すことができるのだろうか。

しかし、そこは「泥の中」である。決して、居心地のいい場所とはいえない。生温かく、濁っている。どちらの世界に居ても辛苦に変わりない。自分でどうすることもできない深い悲しみのなかにいる。泥の中に抒情が発生し、心情の切実さがひしひしと伝わってくる。自己劇化の強い川柳である。こういうことを躊躇なく書けた時代があったのだと思う。

2021年4月16日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






転居先不明でもどる掛布団

菊地良雄 (きくち・よしお) 1944~

手紙だとかはありそうだが、もどってきたのが掛布団というのは奇妙で可笑しい。同時に掛布団の肌触りが新鮮な感触と戸惑いを生み出している。他にもどってきたものはなかったのか。敷布団はどうなったのだろう。予想外の成りゆきでうろたえているようだが、それほど深刻ではなく、どこか漫画的でもある。

生きていると何かの拍子にいろんなことに出くわす。そのときはどうすればいいのか。掛布団のように行き場を見失うのは私自身かもしれない。掛布団だけがもどってくる不条理が再現される。不思議な世界観である。「ふらすこてん」(第54号 2017年刊)収録。

2021年4月14日水曜日

●西鶴ざんまい #6 浅沼璞


西鶴ざんまい #6

浅沼璞
 
 
日本道に山路つもれば千代の菊     西鶴(打越)
 鸚鵡も月に馴れて人まね        仝(前句)
役者笠秋の夕べに見つくして       仝(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

ここまでふれなかったことですが、自註の冒頭には「俳諧、当流といへるは……三句目のはなれを第一に吟味をいたせし」と記されています。
 
「当流」つまり元禄正風体は、疎句といえども、というか疎句だからこそ三句目のはなれ(三句の転じ)を第一に吟味するというのです。
 
当たり前のことですが、この当たり前がむつかしい。
 
「せやから開口一番、そう言うてんねん」

そないな西鶴はんの心意気をくみ、ここまで見てきた打越(発句)・前句(脇)・付句(第三)の最終形態をベースに、「三句目のはなれ」を吟味してみましょう。
 
(「飛ばし形態」のプロセスは文字どおり飛ばします。前回のべたように「飛ばし形態」は自註と最終形態とのギャップを埋めるための仮定の過程。あくまでウラハイ限定公開の“過程”です。 “結果”つまり最終形態のテキストがすべてなのは他の文芸一般に同じと考えます【注】)

 
前句の最終形態は鸚鵡の「日本語トレーニング」という文脈を背景としていました。ですから山路の「日本式計算方法」という文脈を持った打越(発句)への対付として読むことができました。
 
この段階での鸚鵡は日本語(=月)に馴れて口真似するたんなる鸚鵡で、それ以上でもそれ以下でもありません。
 
その無限定な前句の鸚鵡を、見世物小屋の出し物と見立て、芝居町へと転じたのが付句の最終形態でした。逆からいえば、第三の最終形態が付いたとたん、脇の鸚鵡は見世物小屋のそれへと特定されたわけです。
 
このように前句(脇)の鸚鵡を変貌させることによって付句(第三)は「三句目のはなれ」を可能としたわけです。「連句は第三から」といわれるごとく、「転じ」のトップバッターを「見尽しさん」が務めてくれたというわけです。

 
ちなみに付句(第三)の自註では芝居町を「難波堀江」つまり大坂・道頓堀とし、絵巻の絵解きはもちろん、当時の人気役者の評判記的な俳文まで長々と連ねています。
 
連句では表(おもて)のタブーがあって地名や人名の固有名詞が使えませんが、自註にはシバリがないので、おのずと地元志向が爆発したのでしょう。
 
まさに浪速の売れっこ作家の、面目躍如たるノリノリの俳文です。

その自註絵巻の当該部分に関しては下記のリンクを参照してください(説明文中の「蕉風」は「正風」の誤りかと)。

https://www.tcl.gr.jp/wp-content/uploads/meihin044.pdf


次回は四句目(よくめ)へとすすみます。

 
【注】
“結果”がすべてなのになぜ“過程”の穿鑿をするのかといえば、自註と最終テキストとのあいだに潜在する「視点」のようなものを解き明かしたいからにほかなりません。ちかごろ鴇田智哉氏が、俳句にその都度たち現れる眼差しのようなものを「主体感」と規定していますが、それに類したものではないかと考え中です。
 
また、さらに注記すれば、すばやく連句を付けながす呼吸を「拍子」といいますが、その「拍子」にのせて最終形態を提示するためには、飛ばし形態をそれ相応のスピードでこなす必要があったと思われます。そしてそれは独吟だからこそ可能だったはずで、かつて鍛えた矢数俳諧の速吟が、飛ばし形態に活かされたであろうことは容易に想像がつきます。「昔取った杵柄」やのうて「昔巻いた独吟」やねん、とうそぶく老俳諧師のドヤ顔が浮かんでくるようです。談林を制するに談林をもってする鶴翁の、したたかな成長戦略、とでもいえばいいでしょうか。

2021年4月12日月曜日

●月曜日の一句〔中谷豊〕相子智恵



相子智恵







春暁を豚肉背負ふ人行きぬ  中谷 豊

句集『火焔樹』(2020.10 金雀枝舎)所載

海外の市場のような風景を思う。相当大きな塊なのだろう。豚ではなく〈豚肉〉だ。見ただけで豚肉だと分かるのだから、おそらく脚など特徴的な部位もついたまま皮を剥いである状態なのだろう。

春の日がしらじらと明けてゆく中に、豚肉を背負った人の足取りは力強く、〈豚肉〉の血なまぐさい匂いにも力強さがある。生きるために食べ物を売り買いし、命を食べて命をつなぐ一日が今日も始まるのだ。春の朝日が神々しい。

2021年4月9日金曜日

●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子



樋口由紀子






産声ですか秋の木曽川ですか

石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~

「産声」も「秋の木曽川」もこんなふうに一句の中で出会うとは思ってもみなかったはずである。新しい生命の誕生の「産声」、厳しい冬が来る前の、自然に恵まれた信州の一級河川の「秋の木曽川」。どちらも具体的でよくわかるが、つながると一気に抽象化する。

それは誕生の喜びや情景に依存することなく、最後に音だけを残すというのを優先しているからだろう。だから、具体的なモノやコトにとどまらないでいることが可能になる。「産声」を出すことでもう一つの音の「秋の木曽川」を、「秋の木曽川」を後ろに置くことでもう一つの音の「産声」を、「ですか」の措辞で、それぞれの音を対比させながら相乗効果を生む。演出が巧みである。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2021年4月5日月曜日

●月曜日の一句〔西宮舞〕相子智恵



相子智恵







時惜しむごとくゆつくり散るさくら  西宮 舞

句集『鼓動』(2021.2 ふらんす堂)所載

桜は「もう散ってしまうのか」と散る速さを惜しむのが定石だが、〈時惜しむごとくゆつくり散る〉にハッとし、しみじみする。思えば、同じ場所に複数本の桜の木が植えられていたとしても、種類の違いや日の当たり方などによって、最後に咲き、散る桜もあるわけだし、一樹の中で最後に咲き、ゆっくり散っていく花もある。初花や満開ばかりが話題になりがちな桜にあって、ゆっくり散る桜は、どこか悠々としていて心が伸びやかになる。東京はすでに花過ぎだけれど、ゆっくり散る花を惜しもうと思う。

ところで本書には次のようなアイロニーを含んだ句もある。

花冷や桜の皮の皿や筒

降りしきる桜蘂もう誰も見ず

〈ゆつくり散る〉と惜しむ心も、花を愛でつつも樹皮は惜しげもなく皿や筒にする感覚も、もう誰も見ない桜蘂も、どれもひとりの心の中に矛盾せずにあって、そのことが真実であり、だからよいのだろう。

どの句も皆が美しいと思う桜の定石の見方を静かにずらしているように見えて、その本質を捉えている。

2021年4月2日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






ひとのくぼみにちょうどいいレモン

妹尾凛 (せのお・りん) 1958~

梶井基次郎の『檸檬』を思い出した。身体のくぼみにレモンを置くのかと思ったが、少し趣は違う。このレモンは梶井の仕掛けた檸檬のような緊張感はない。

「ひとのくぼみ」は気配で、得体の知れない憂鬱、心のへこみだろう。大きさ?重さ?色彩?バランス?何が「ちょうどいい」のか。どれもが当てはまるように思える。レモンはさわやかな印象はあるが、その酸っぱさに悲しみが広がっていくような気もする。

「ちょうどいい」は何よりも前向きの思考である。埋まることのない喪失感とさびしさをそう思うことで気持ちを切り替える。自分の繕い方法、ごまかし方を知っている。たぶん、何であろうとも「ちょうどいい」と対処しているのだろう。『Ring』(2020年刊)所収。

2021年4月1日木曜日

●コモエスタ三鬼42 絶筆

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第42回
絶筆

西原天気


春を病み松の根つ子も見あきたり  三鬼(1962年)

3月7日作の絶筆。前年夏から胃の調子が悪く、10月、胃癌の診断を受け手術。およそ半年後の4月1日、朝より昏睡状態に陥り、午後永眠、その夜に通夜が執り行われた。

幹でも枝でもなく〈根〉というあたり、虚無とも、作者の臍曲り具合とも受け取れる。

手術後も、不調のなか句会、選句、原稿執筆など仕事を続け、年譜(鈴木六林男編・『俳句』1980年4月臨時増刊「西東三鬼読本」所収)には、逝去の1か月前の3月2日に「角川書店塚崎編集長、第四句集『変身』十部持参」とある。


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