「石川九楊大全」前期【古典篇】(6/8~30 上野の森美術館)を見逃したので、猛暑も厭わず後期【状況篇】(7/3~28)へ足を運びました。
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初期作品群から戦後現代詩文、そして最近の自作詩文というパースペクティブにおいて、ひときわ印象深かったのは碧梧桐109句選です。
前衛書家として碧梧桐の前衛性をつとに評価していた九楊氏は『河東碧梧桐-表現の永続革命』(文藝春秋)なる批評集を2019年に上梓。その仕上げとして、碧梧桐109句を選び、書画をしたため、注釈を施した『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』(左右社)を2022年に上梓。今回はその全展示という次第です。
書画作品の下にはその注釈も掲示され、整然と二部屋に連なる様はまさに圧巻。一句一句たどるうち、109句という数的連関もあってか、ふと西鶴の独吟百韻を連想したのですが、次の一句に出会い、やはりそうかと目から鱗でした。
一日百千句発句の秋巍々乎たり 碧梧桐
この句、九楊氏の注釈によれば「骨立舎」と題されており、小沢碧童宅での句会「俳三昧」を詠んだもののようです。巍々乎(ぎぎこ)とはすばらしく高大であるという意味らしく、九楊氏の注釈は次のように続きます。
〈…作句に次ぐ作句の俳句修行を碧梧桐は具体的、実践的に詠む。天高くして広大な秋。それに呼応するかのごとき、骨立舎に集う志高き俳人達。虚子は俺が俺が。碧梧桐は我等我等。〉
いわば〈俺が俺が〉は垂直志向、〈我等我等〉は水平志向ですが、虚子も碧梧桐も(そして西鶴も)実作では垂直/水平の両義性を駆使しました。それは俳諧自体が発句の垂直性と付句の水平性をもった「二律背反の濃い塊り」だからでしょうが、九楊氏の書とてその両義性と無縁ではなく、この【状況篇】でも9・11事件を扱った「垂直線と水平線の物語Ⅰ」という連作の展示があったというだけではありません。図録序文では垂直/水平の両世界の発見について言及しています。
〈一方では筆は刷毛となって、紙の繊維に沿って墨が平面的に広がってゆく水平の世界、また他方では鑿とも錐ともなった痩せた筆蝕が紙の奥深くまで立体的に斬り開いていく垂直の世界とを発見した。〉
この二律背反の発見により、氏の作品は〈現代美術か現代音楽の図形楽譜と見まごうばかりの姿へと変貌を遂げた〉わけで、9・11事件以後の碧梧桐109句選にもそれは如実に反映されていました。
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先日、くしくも東武ワールドスクウェアにて1/25スケールのツインタワーを仰ぎ見ました。その瞬間、九楊氏の作品群が真夏の逆光に雪崩れるかのようなイリュージョンを覚えました。
狂気に満ちた垂直/水平の背反的世界に、俳句も書画もあることを、この【状況篇】は世に告げわたっていたというほかありません。