2008年7月15日火曜日

流れゆくものと流れ寄るもの

〔週俳6月の俳句を読む〕

流れゆくものと流れ寄るもの ● 馬場龍吉



あなたは川岸に立っている。すると上流からいま刈り取られたとおぼしき一群の草が芳香を放ちながら眼前に流れ来る。そのなかに、あなたに寄りくる草がある。それはほんの偶然の出合いに過ぎない。俳句との出会いもこういうものではないだろうか。なにかのきっかけで目にできる俳句と、目にできない俳句がある。幸いなことに週刊俳句に掲載される作品は月刊の俳句誌よりもいち早く旬の作家の旬の作品が読める。つまり、より身近に俳句が流れ寄ってくるということなのだ。あとはあなたの鑑賞眼に任されている。

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「華」

ぼうたんは崩れ太虚にかこまるる   八田木枯

八田氏の作品にはタイトル通りそれぞれの花に華がある。掲句は牡丹が散ったあとの、牡丹の周りのその虚無感、空気感を詠むことによって牡丹の花の質感を感じさせてくれた。

白き薔薇ものに溺るるこそよけれ
白き薔薇剪られ鏡のなかに痴れ

白薔薇の花言葉は「純潔、あなたを尊敬する、私はあなたにふさわしい」なのだそうだが、氏の描く薔薇はいささかナルシスティックでもある。いや花はみなそういうふうにも見えるのだが。まるで花との交信を愉しむように詠まれている。

花に囲まれた生活ができることを裕福と言うのではないだろうか。花を育てる余裕、観賞するゆとりがいまの殺伐とした現代にこそ必要であろう。俳人は世の中にプラスになることは何もしない。だが、マイナスになることはもっとしないはずである。それでいいのだ。と、バカぼんのパパならきっと言うはずだ。

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「標本空間」

明易や吊れば滴るネガフィルム    佐藤文香

デジカメがこれほど普及するとは思わなかったのだが、そんななかでも、いやそんな時だからこそ、フィルムを現像して印画紙に焼き付けをするアナログ的な写真の魅力に取りつかれている人も少なくはないはずである。焼き付けにもさまざまなテクニックがあって1枚のネガから多種多用な写真ができそうだ。と、写真は一度もやったことはないのだがそう思う。掲句はデジカメでは成り立たない世界である。夢中で作業していて朝になってもまだ暗室にいるのかもしれない。その時間のギャップが「明易」で見事に表現されている。

ひた並ぶ昼の街灯あげはてふ

単なる写生俳句と思ってはつまらない。巨匠小津安二郎監督なら昼の定位置のカメラに夜の風景を撮影しているであろう。光源の街灯に集まる虫や蛾を写しているであろう。平句の良さはこういうところにあるのではないだろうか。「昼の街灯」は「夜の街灯」でもあるのだ。

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「縫目」

敵味方入り乱れたるシャワーかな   齋藤朝比古

齋藤氏の俳句は読者を裏切って頼もしい。そういう意味で氏の作句姿勢は読者を裏切らない。運動音痴のぼくには善戦していたスポーツがラグビーなのか、サッカーなのかわからないし、試合後に同じシャワールームでシャワーを浴びるのかもわからない。だが、とてもわかるのだ。「入り乱れたる」が下五のどんでん返しを誘う。これこそ職人芸と言ってもいいだろう。

ががんぼの吹かれて自由とは違ふ

ががんぼのあの何にでもすがるような頼りなさはたしかに風来坊とは違うなー。ががんぼの気持ちがふっとわかるような気持ちにさせてくれた一句。

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「草」

瑠璃蜥蜴草葉の蔭を出入りする    望月哲土

「草葉の蔭」の引用が効いている。あの世とこの世の出入りが自由なのでは。と思わせてくれる。瑠璃蜥蜴ならさもあらん。乱暴な言い方だが、蜥蜴の生態は猫に似ているところがある。もの陰にいそいそ逃げ込んだかと思うと向きを換えてこちらを窺っていることがある。とすると半身はあの世に行っているのかもしれない。この作品「蔭」がとても気になる。望月氏はここで草の織り成す翠の影を言いたかったのだろうが、言いたいのは「草葉の陰」であって「蔭」ではなかったのではなかろうか。と、個人的見解。

心身の親に似ない子竹煮草

「とんびが鷹を生む」とまでは言ってはいないのだが、親類縁者のどこを見回しても誰にも似ていない子というところだろうか。そういうことも世の中にあって不思議はないかもしれない。季語「竹煮草」にノスタルジーを感じさせて唐突感がなく丁寧な作品だと思う。

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「来し方」

来し方の暮るるや小屋の夏燈     大野朱香

この夏燈は身体には涼しく心にあたたかくて沁み沁みいい。「来し方」は歩いてきた道のりであり、人生の長い道のりでもあるだろう。久しぶりに大野氏の作品を拝見できた。今回の連作では全体にそつのない仕上がりになっているが、反面物足りなさを感じるのはぼくだけではないだろう。現代俳句データベースには〈一枚の落葉にふるへ沼の水〉〈登高や小石は崖を転げおち〉などの作品が見られる。

すれちがふ青野の人の手に御数珠

こういう見方、感じかたは氏の独壇場である。と言ってこういう方向だけではなく、多面的な視角を持つ作家であることには違いない。

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「犬がゐる」

帰る道きらきらとして宵祭      榊 倫代

「宵祭」の良さがここにある。本祭はひたすら終わりに向かって進行していくのだが、宵祭は祭に参加している側も、それをとりまく見物の側にもまだまだ本祭のたのしみを控えた時間が残されている。そういう期待の「きらきら」ではないだろうか。

形代の回覧板で回りけり

厄除けを回覧板で募るとはあまりにも現代的。面白いが、これは作った面白さではなく。事実は小説よりも~だろう。そしてその発見の面白さがある。回覧板は各戸へ回すものだが、こうして俳句になってみると。形代が回覧板に乗って空を飛んでいるようにも思える。そこがまた面白い。




八田木枯「華」10句 →読む
佐藤文香 「標本空間」10句  →読む
齋藤朝比古 「縫 目」10句  →読む
望月哲土 「草」10句  →読む
大野朱香 「来し方」 10句 →読む
榊 倫代 「犬がゐる 10句 →読む

1 件のコメント:

  1. >明易や吊れば滴るネガフィルム    佐藤文香

    龍吉さん、今晩は。現像室に朝までよくこもってたので、フィルムの現像についてお話しすると、フィルムの水滴はほんの小さな水滴でも埃をよんで痕がついて乾くとブラシでも取れないので、定着液を水で流した後、上からクリップで吊るし、下にも錘用にクリップを付けて真っ直ぐにし、水滴防止剤に付けたスキージーという、フィルムを挟んで水滴を拭き取るスポンジ付の竹鋏のようなもので滴を静かに掻き下ろします。いいプリントはいいネガからなので、疵をつけないように丁寧にぬぐいます。

    セーフライトをつけて現像液の中から印画紙に像が浮かんでくる二分間は何度やってもスリリングで飽きません。
    ほんと明け易し。

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