大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・続 〔 4 〕
羽田野 令
『硝子器に春の影みち』の巻末の年譜によると、1962年大本氏が愛媛県立川之石高校に入学した年に、一級上の坪内稔典との交友はじまる、とある。坪内稔典も栞文で大本氏との若き日々のことを書いている。その中で大本氏の十代の作品として挙げられている二句のうちの一つは、
密猟船待つ母子 海光瞳を射る朝
という句である。密猟などということは本当にあって、それは海に近いところに住む者にとって、比較的幼い時期にも触れ得る非合法的な事がらの一つなのだ。坪内稔典に実際に密漁船を見たことを書いた文章があって、それによってそのことを知った。
その文章、昔の雑誌からのコピーなのだが、大本氏から頂いて読んだのだが紛失してしまって、いくら探しても見つからない。あったら部分をここに引くのだが、私の記憶だけで書くとこうである。記憶なので細部は違っているかもしれない。
中学時代の話である。中学校の運動場から湾が見えるのだが、ある日体育かなにかで運動場にいた時に、怪しげな船が見えた。船は湾に入ってきて接岸すると、船から男たちがぱらぱらと降りて四方へ散っていった。そしてその船は湾を出ていったのだが、その船が消えると今度は巡視船がやって来た。巡視船は岸に近づいてきて拡声器で海から陸地に向けてアナウンスを始めた。不審な船を見なかったかと。中学生たちがたくさん校庭から海の方を見ていたので、中学生の皆さん、見たという人は名乗り出なさい、船がどこへ行ったかを知っている人は教えて下さい、と呼びかけたそうだ。しかし一部始終を見ていた誰も名乗り出なかったという。湾を見下ろす少年たちが、ただならぬ光景に釘付けにされ、その呼びかけに対してドキドキとしている緊迫感の伝わる文章であった。その事件は坪内氏に閃光を灯し、以後長く胸に残ったというのだ。
坪内氏と大本氏の家は10分ぐらいの距離にあったそうだ。同じ海辺の町の事件の衝撃は大本義幸氏にとっても同じようだったのではないか。それを見て自らの位置をどこに置くかがその後の書く姿勢に関わってくる。その社会に認められた埒内の存在として、法を破る者と対峙する側に置くとすれば、坪内の「父祖は海賊」という言葉も、大本の「われら残党」も出てこなかったであろう。
悪への憧れは若き日に文学を志す者にとっての大きな要素である。自分の中へ深く沈む時に見出すものは悪と関わってくるものだろうし、社会からはみ出している個を仮構することによって見つめ得る自己といったものが書くことの対象であるような時に、海辺の若者にとっての密漁船は大きなインパクトを持ったに違いない。そして海賊の系譜に自らを加えることによって成った作品は、そのような自意識を共有できる読者にとっては胸を打つものとなる。
高校時代に坪内稔典と出会いその後摂津幸彦と出会うという、大本氏をめぐる交遊関係を見ていると、同じ家に下宿していた漱石と子規、家が近所だった子規、虚子、碧梧桐という明治の松山の交友関係がダブルイメージとなってくる。
われありとおもえば青蛾先ゆけり
昼月が頒つふたりの我(われ)と我(かれ)
第一章の『非(あらず)』からの二句。
自己を投影する対象として選んだ蛾という虫。そしてこの蛾には「青」がついている。水の色、大空の色である青は、澄んだ清浄なものを表す色であるし、翳りの色、病んでいるものに使われる色であることを思えば、傷つきやすい自我といったものが浮かぶ。しかし、青であっても蝶ならぬ蛾はやはり異形のものである。ふっと我の存在に替わって我の前を飛び立つものが、そのような蛾であるとする感覚に惹かれる。
二句目は昼の月。まだ明るい空にぽっかり出る白い月。半月ぐらいの月が多いのだろうか。空の水色が白い月にところどころ透けるようにして出ているような気がする。その本当の月ではないような不思議な感じと二つの我との構成がなんとも言えない。
どちらも我が在るということ、我が何かということが短かい音数の中に問いとして表され、句の世界が「青蛾」や「昼月」から広がってゆく。我とは何なのかということを、われとかれとは何なのかということを波紋のように受け取ることが出来る。
(つづく)
〔参照〕 高山れおな 少年はいつもそう 大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む ―俳句空間―豈weekly 第11号
〔Amazon〕 『硝子器に春の影みち』
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大本さんたちの故郷は、私の住んでいた松山死からずっと南で、風土も言葉も違います。
返信削除八幡浜までは行かなかったけど、宇和島へいったときに、沖合の日振島に海水浴に行きました。瀬戸内海の「海賊」だった藤原純友の立てこもった島です。
文字通り南国、海に潜ると青いネオンフィッシュが泳いでいましたし、水族館にいる赤や黄や黒の縞の小さな魚。それから、ひとかげがなくて、猫があちこちにいて、まひるの島というのは、すこし雰囲気がかわっていました。高橋新吉、赤黄男、稔典、義幸、どこか異端のおもむきがありますね。
「高校時代に坪内稔典と出会いその後摂津幸彦と出会うという、大本氏をめぐる交遊関係を見ていると、同じ家に下宿していた漱石と子規、家が近所だった子規、虚子、碧梧桐という明治の松山の交友関係がダブルイメージとなってくる。
われありとおもえば青蛾先ゆけり
昼月が頒つふたりの我(われ)と我(かれ)
」(令)
愛媛県人(伊予二名の島)のひとたちの郷党意識はとてもつよいのです。
子規たちも、東京へ留学して、そこの郷人の寮のコミュニケーションとして「俳諧」がたのしまれた、ようです。「ねむらん会」でやっているようないろんな言葉あそびで交流したようです。
句のことは次ぎのコメントで。
年末忙しいもので。
私は、犬山市生まれで移住者組みですが。
大本さんたちの故郷というのは、松山とそんなに違うのですか。よそから見ていると、同じ地域のように思ってました。
返信削除日振島、ネオンフィッシュが泳いでいる南国、ですか。いいところなんでしょうね。
不器男の松野町は行きましたが、山の中の今も鄙びたところでした。愛媛も広いですね。
横に長いのと、内海にめんしたところ、四国山脈に入り込んだところ、川筋、平野部、と地形が複雑。平野の居住地域は同じ感じですけどね。八幡浜の海の方は九州との接点だし。。
返信削除おもしろいところです。
新年おめでとうございました。
返信削除われありとおもえば青蛾先ゆけり
昼月が頒つふたりの我(われ)と我(かれ)
大本義幸
これらは叙情的だから、このみがわかれるとおもいます、言葉はいちど外に出ると、それが胎む世界を拓いてゆきますから、「われあり」とか、「我(われ)と我(かれ)」など、かならずしも大本さん自身でなくても良いのですが、このひとは全体が、私性にひきつてしまいますね。これもいやがる人がでてくるでしょう。でも、私は、良くできた私性の「うた」だとおもいます。
「青蛾」とい幻想的な先達・「昼の月」という狂言回し、みなうつくしい自然からの使者です。「自己分裂」の危機を、すくっているものは、これら優雅で結晶度の高いもの、ナルシシズムの具現物でしょう。