大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・続 〔 5 〕
羽田野 令
この句集には、硝子同様、薄氷もよく出てきている。後半に多い。
薄氷の流れのごとき生なりけり
さようなら薄氷を来る旅の人よ
明日あらば水の上の薄氷よ
薄氷を追う癖いつから春浅し
きらきらきらきらし薄氷を渉る人
薄氷を踏んでいたると鳥翔てり
薄氷のなか目をひらくのは蝶だ
硝子も薄氷も透明で割れやすいものであるが、薄氷は硝子よりも一層あやうげである。それは青年の孤独な傷つきやすい心にも似る。そして、光を通す美しさ、透明ゆえの清らかさは憧れの対象ともなり得るだろう。二句目の「薄氷を来る旅の人」、五句目「薄氷を渉る人」、六句目「薄氷を踏んでいたる」は、まさに薄氷を踏むということそのものが書かれている。「生」が薄氷の流れのようだとする一句目もあり、自分の辿っているところを見た時の、確固としたものを持ち得ないという自己に対する意識や、危うさをいつも持ち繊細である生き方を希求している詩人のような眼差しが伝わってくる。
また、この句集のタイトル『硝子器に春の影みち』からして硝子と影という二つの言葉が入っているが、光に透けて輝く硝子や薄氷とは逆のかげりに注目した作品も多い。「かげ」という言葉は、光によって出来る事物の影や光の当たらない部分という意味の他に、光とか形という意味も表すことがあり、タイトルの中や、タイトルの元になった句<硝子器に春の影さすような人>の「春の影」は、後者の意味も含んでいるように思うが、かげりの意味の影、翳の句と、「暮れる」が使われている作品とを挙げてみる。
ああ、影。外灯のよく伸びる街に入る
階段の鳩の半身ひぐれている
真翳こそわが来し方睫毛したたる汗
肩より暮れる運河われら有尾人
己が影桜に肖たる冬の花
冬至かな杉木立のなか影を失う
星映るほどに影あり厠紙
鯉の鰓動くとき月光の翳りかな
二句目、四句目、体が「暮れる」ことによって得たであろうかげりがある。夜の町を歩く作者の目の捉えた長い影や、星の映るほどだという厠紙に見た影。真翳という影の中の影のような言葉もあり、それは来し方だという。大本氏は自らの生を「薄氷」と言い「真翳」と言っている。
この句集は物語として仕立てられた第四章「冬至物語」があるのだが、その外伝の方が先にあって、第三章に「当時物語」外伝1、2として入っている。「冬至物語」の中には野口裕さんがここで書かれた文章の第4回目に挙げられていた、「どすこい」という言葉の入った七七の句が四句ある。五七五でもないし、七七の前の部分は全部同じという変わった四句なのだが、ふとそれらに相撲甚句が重なってくるような気もする。相撲甚句とは、「どすこい」を二回重ねて結句とする七五調の歌である。元は力士から発した歌だそうだが、力士ならずとも替え歌としていろいろな場で歌われてきた民謡だから、何かの時に昔聞かれたりしたのかもしれないと、私の勝手な想像もはたらく。どこかで聞いた相撲甚句が、ちらと脳裏を掠めて成った句なのではないかという想像が違っていたとしても、<どすこい>が合の手のように入っていて、かなり土俗的なイメージであることには変わりない。この章題にあるように物語を構成しつつ読むとすれば、この句の場面は土俗的な民の集う場での歌のように呪文のように唱えられる「一夏どすこい」が、繰り返しという原初的音声の感をも呼び起こすような場面として物語にちょっと変わった場面を添えるのではないだろうか。野口さんがあまりも簡単に切り捨てられているので、私はちょっと異論を唱えてみた。
ほかに、映画「灰ととダイヤモンド」の下敷きがあるような句もある。
青痣のごとしマーチェフ・地下水道
マーチェフは、マチェック、マチェク、マーチェク等と書かれていることもある、暗殺者の名前である。また、アジアの裔、イルボンサラムニカ、ヒロヒト、等という語も出てきて、ここからどういう物語を読んでいけばいいのがまだ私にはよくわからないのだが、何となく物語仕立ての泡がふつふつと湧きあがっているようである。
五回にわたって『硝子器に春の影みち』の中から句を取り上げてきたが、ごく一部に過ぎない。私なりの読みを書いてみて、書き足りないことの方が多いと思いつつ終らねばならない。多くの方にこの句集が読まれることを願っている。
(了)
訂正:前々回に取り上げた句「海百合の朱(しゅ)を蔵(しま)ひおくわれら残党」は第一章からではなく、第二章の句でした。
〔参照〕 高山れおな 少年はいつもそう 大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む ―俳句空間―豈weekly 第11号
〔Amazon〕 『硝子器に春の影みち』
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>野口さんがあまりも簡単に切り捨てられているので、私はちょっと異論を唱えてみた。
返信削除あまりに簡単に片付けたせいか、この回だけ付けられたコメント数が異様に多くなりました。コメントをたどってもらえばわかると思いますが、私も羽田野さんの出している視点に異論はありません。
ただ、今でも気持ち悪い。食べたことはありませんが、私にとってはフナ寿司とかクサヤの干物みたいなものでしょうか。「慣れるとおいしいクサヤの干物」というセリフが「がきデカ」にありましたが、はたしてそうなるのだろうか?
あはは、「慣れるとおいしいクサヤの干物」ですか。
返信削除私はクサヤは知りませんが、鮒寿司はだ〜い好き。
ほんと、野口さんの「どすこい」の句についての回、コメント多いですね。
令さん。ご苦労様でした。大本さんのことには毎回こめんとすることにしています。
返信削除「薄氷」も、「硝子」も心理的な比喩としておなじことでしょうね。
本人からの手紙では、「皆は45年前のぼくについてかたっているんだ。」と。45年前の句を出しているのだから当然そうなります。そのくらい、当時の「現在時」への青春の思いが強烈で、今も風化していない、ということです。
そう言う個人的な時間ヲ追跡しながら、自分たちのそのころの言葉や、文化を回想させるのも、この句集の魅力の一つですよね。
「どすこい」は「くさや」か「フナ寿司」か。おもしろいわねこのたとえは、これについては また。後日。
「薄氷」使い方について。「硝子」「硝子戸」の方が自分に引きつけていると言う意味で、こなれている気がします。
返信削除さようなら薄氷を来る旅の人よ
「さようなら」、と言う限りは、「行く」でないといけない。
薄氷を追う癖いつから春浅し
これも、春浅しがとってつけたようだ。
もちろん、とってつけていても、うまく何かを喚起すればいいのだが、ここではあまりせいこうしていない気がする。
薄氷の流れのごとき生なりけり
自分(多分)の生がこのようだ、ということ、あぶなかしいそして、浮動していると言う感覚は、例えば「浮き草稼業」という言い方でよく見聞きする、演歌の歌詞の常套的感受性だ。
でも、「薄氷」、と言う言い方が冷たくて、感傷的でもシャープになっている、演歌調を一歩でている。
明日あらば水の上の薄氷よ
これも、同じ感想。すこく危ない橋、いや危ない「川の」「流れのように」・・これが生の実感だとしたら、この人の繊細さは怖いくらいだ。
きらきらきらきらし薄氷を渉る人
これは。奇妙な活気、。
薄氷を踏んでいたると鳥翔てり
これは。句会で議論になったのかしら、
「踏んでいたると鳥翔てり」これは、自分が踏んでいる、と考えるのが自然だが、鳥自身のことかも・・。いや、やはり鳥ではないね。
薄氷のなか目をひらくのは蝶だ
これは面白い言い方だろう。
全般的にたしかにセンチメントが強いけど、上質のセンチメントですよねえ。令さん。
吟さま
返信削除はい、確かに。上質のセンチメントだと思います。「硝子器に春の影さすような人」は最近の作品ですが、全体に見て、若い頃は硝子が多く、最近の方が薄氷が多い様ですね。
「硝子器に春の影さすような人」が“エロス”というテーマの時の句会に出された句であるのも面白いです。硝子に映る光や影に独特のものを感じられているゆゑなのでしょう。
薄氷の中に目を開くというのもちょっと変わった場面展開ですよね。昔よく美術や映画の雑誌に載った、映画『アンダアルシアの犬』の目のアップの写真を、映画は見てないのですが、思い出したりします。