2009年1月1日木曜日

●富士山

富士山

『法然』(数年前に刊行)より転載

from east 長谷川裕

江戸に暮らした人々はことのほか富士を愛した。いまでも東京のところどころ、神社の境内や企業の敷地となったお屋敷跡などに、富士講の小富士が散見されるのはその名残りだ。北斎の富嶽三十六景が版を重ねたのも、むろんこの富士人気あってのことだ。

富士は江戸の日々の暮しに一種、独特の感情を与えてくれるものであった。周囲を山で包まれ、おのずと安心できる京都や奈良とは違い、江都の置かれた関東平野は広く、茫漠としている。人々は遠く小さく、ときに蒼く霞み、ときに鮮やかに白雪を被った霊峰を確かめては安心し、小さな喜びを感じていたようだ。

その感情は江戸が東京へと移り変わっても続き、明治、大正、昭和と、東京とその近郊に暮らした人々は、富士を望むたびになにやら得をしたような気分になった。いまでも東京っ子はなにかのおりに富士を発見すると、無心に「あ、富士山」と、子供のように声をあげる。

この気分は津軽出身の太宰治には理解しがたかったようで、彼は『富嶽百景』のなかで、富士を「風呂屋のペンキ絵でも見るようだ」とくさし、それでもそこに月見草を配することで、まあ、悪くはないじゃないかと、ちょっぴり救済する。太宰にとっては本家の富士山よりも、津軽富士つまり岩木山のほうが、ずっと親しかったのだろう。

小学校のころ、放課後の夕暮れに校舎の二階から富士を見た。赤い空を背景に三角形の黒い影がはっきりと遠望できた。季節風に乗って飛雪が頂上から南に向かって流れているのまで見えた。茜はしだいに紫に変わり、ついに富士の山影が群青に溶けていくまで、ずっと眺めていた。小学校は東横線の祐天寺駅のすぐ近く。当時はそんなところからでも富士が見えたのだ。

ずいぶん建物が立てこんでしまったが、いまでも中央線の国立、国分寺あたりからなら、冬の朝や夕暮には堂々とした富士山が見える。そんなとき相変わらず、ちょっと得をしたような、いい気分になるのである。


from west さいばら天気

富士山が日本という国の象徴のようになったのは明治期らしい。『小学唱歌』には、「あふぎみよ、ふじのたかねのいやたかく、ひいづるくにのそのすがた」とある。太陽が昇る国、秀でた国で仰ぎ見る高嶺。それが富士山だという。

ところが日本の西方に暮らしていると、実際の富士山を見ることはあまりない。富士山とは、教科書や絵本にある富士山、すなわち三峰になった頂上に白く雪を戴き、なだらかな稜線を持つ左右対称の高峰。富士は「山」ではなく「図像」であった。

明治に誕生した政府が治める日本は、やがて西欧との戦争へ。そして富士山には「フジヤマ」という異国情緒たっぷりの表記が加わる。ジパング観光にはゲイシャとフジヤマが欠かせなくなったということか。だが、フジヤマもゲイシャも、どこか遠い国の話を聞いているようだ。みずからの姿が写っているはずの鏡には、誰のいたずらなのか、色彩の濃い絵はがきが貼られている。そんな感じさえする。

十代の頃、はじめて東京へと向かう新幹線の窓から、富士山が見えた。その後、退屈な海外旅行からの帰途にも一度だけ富士山が見えた。

日本という国に親和と違和の双方を抱いて暮らすとき、富士とは、この一三〇年ほどのあいだ首都である東京という町の西方に立つ襖(ふすま)のような存在である。あるときは優美にも荘厳にも見えるが、あるとき、その存在は凡庸でおしつけがましい。通りすがりにこの山、富士を眺めるときでさえ、私たちは、歴史や社会から自由ではないということだろう。

2 件のコメント:

  1. あけましておめでとうございます。
    本年も宜しくお願い致します。

    今日、岡山から空路東京へ帰って参りました。
    お天気が良かったおかげで、静岡沖から羽田に降りるまで、ずっと、雲からうえに頂上を覗かせる富士を眺めることができました。
    羽田に着いて、モノレールで自宅へ帰る途中も、入り日をバックにした富士のシルエットが、それは美しく聳えておりました。
    関東では、どこからでも富士が見えるのだ、ということを、上空からですが、少し実感することができました。

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  2. くにたちにも富士見通りがあって、
    三が日とも、大きく富士の影が見えました。

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