近代女性俳句、その戦略 ― 長谷川かな女と保持白雨の場合:Haiku New Generation
http://haikunewgeneration.blogspot.com/2009/08/blog-post_2513.html
(小見出し)
1「良妻賢母」という戦略
2 かな女という偶像
3『青鞜』の俳句―「おばさん」という戦略
4「おばさん」の変身
やや長くなりますが抜粋。
実際『ホトトギス』の男性俳人たちは婦人十句集に現れた理想の女性像を共有し、虚子たちの家庭を模倣することによって理想の「家庭」の構築を試みた。(前掲・以下同)大正期~昭和初期の俳句世間(ホトトギス)における「女性像」について作品をからめて論じ、かな女と白雨を対照させる。ジェンダー論へも軽く言及。
すでに短歌においては、『明星』が新しい女性の身体像を絵画によって視覚的に明示し、「男たちが描いた《女なるもの》の夢を逆に揺さぶり返し、塗り替えていく」ことで与謝野晶子や山川登美子といった歌人が生まれていた(注8)。俳句において男たちが「《女なるもの》の夢」を提示し、それを受けた女たちとのあいだで創造的なコミュニケーションがなされるという同様の例は大正時代の『ホトトギス』に見られる。その例を「足袋つぐやノラともならず教師妻」(杉田久女)、「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」(竹下しづの女)というような句―「良妻賢母」という「夢」を裏返して投げ返すような句に求めることもできるだろうし、また逆に、「夢」を積極的に引き受けた例として長谷川かな女を挙げることもできるだろう。
かな女がコミュニティに属する者の共有しうる女性像を自ら引き受けることによって、用意された舞台で他の女性と俳句を共有したのに対し、俳句を共有する者を持たない白雨は逆にそのコミュニティに属する者に共有されない女性を演じることで自らの立ち位置を確立したのである。
(さいばら天気)
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そう言えば、わたくしの若い頃は、詩人はみな個人誌でしたね。ガリ版。
返信削除小説家は同人誌が多かったような気がする。歌人も個人誌が多かったような。
「~通信」という個人誌も結構多かった。年間購読費払って読んでました。菅谷規矩雄とか小山俊一とか。当時はそれが当り前だった気がしますが、俳人では、ふけとしこさんが「ホタル通信」という個人誌をずっと出されていますね。ミニ新聞のような。
個人誌というのは、自分が読んで欲しい読者にしか送らないから、余り目に触れないだけで、結構あるとは思いますが、今はブログに取って代わったという気がします。
個人誌→ブログ というの、よくわかります。
返信削除同人誌→Haiku&Me という流れもこれからは増えるのか(どうかは不明)。