冬の部(一月)大寒
猫髭 (文・写真)
大寒や白々として京の町 木犀 昭和三年
【大寒(だいかん):二十四節気の一。太陽の黄経が三〇〇度に達した時をいい、現行の太陽暦で一月二〇日頃に当たる。一年で最も寒い季節。一二月中気。[季]冬】(大辞林)。
「小寒の後十五日目、大抵一月二十一日頃に当り、最も寒気凛冽である」と虚子編『新歳時記』にある。山本健吉編『最新俳句歳時記』には「二十四気の一、陰暦十二月の中で、小寒の後十五日、すなわち一月二十二日、三日にあたる。寒威酷烈を極むる時である」とある。
掲出句は、底冷えの京都の、その大寒の夜明けの一段と冷え込んだ姿を詠んだもの。白は百より一足りない九十九を意味し、物事の終りの意があるが、どん詰まりの寒さを表わしているようだ。
虚子が、
鎌倉を驚かしたる余寒あり 虚子 「ホトトギス」大正3年3月
と詠んだのは大正3年2月1日で、「余寒(よかん)」は寒があけてからの寒さをいうが、木犀の句は「大寒」の「最も寒気凛冽」たる姿を静かに詠んでいる。
作者の木犀は、大阪の俳人とのみで、詳細は不明。識者の助言を乞う。
虚子、健吉とも、口を極めて大寒の寒さを言うも、今年平成22年庚寅(かのえとら)の大寒はといえば、20日13時23分。「十月和暖如春」の小春日和以上の馬鹿陽気で、東京は17℃の気温を越えて4月の「清明」から「穀雨」の頃の陽気となり、鎌倉は夕方から海が冷えたせいか夜中の2時過ぎまで風が荒れて、谷戸(やと)は虎落笛が吹き渡り電線を鳴らし続けた。
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「大寒」の句で思い出したが、虚子には有名な「大寒」を詠んだ句がある。
明治41年10月号から昭和12年9月号の雑詠を選抜した『ホトトギス雑詠選集』には、虚子は自分の句を省いているが、つど編まれた『ホトトギス雑詠全集』には自句も載せている。虚子の『高濱虚子全俳句集』(上下二巻、毎日新聞社)には、虚子の「大寒」の句が四句収められている。
大寒にまけじと老の起居かな 「ホトトギス」昭和15年1月
大寒や見舞に行けば死んでをり 「玉藻」昭和15年3月
大寒の埃の如く人死ぬる 「ホトトギス」昭和16年1月
大寒といふといへどもすめらみくに 同上
虚子が『新編歳時記』に収めた自句は「大寒の埃の如く人死ぬる」だが、「玉藻」の「大寒や見舞に行けば死んでをり」が何と言っても不謹慎なほどのインパクトがある。しかし、虚子の句や小説を辿ると、虚子は、唯ありのままをありのままとして詠んでいるだけなのだ。
鎌倉の寿福寺の虚子の墓のそばに「白童女」という小さな墓がある。虚子は、大正3年4月22日、六という名の三歳の四女を亡くしており、「白童女」とは虚子が六につけた戒名である。虚子は我が子の看病を一人で献身的にするのが常だった。次女立子が肺炎になって医者が見放したにも関わらず献身の看病で生き返らせた。六の時も虚子は必死に看病するが、命は取り留めたものの脳に障害が残り、子は寝たきりになり、医者から虚子の看病は旧式だと指摘され、虚子はずっとその負い目を背負い、やがて再び六が肺炎に冒されたとき、虚子は「凡てのものの亡びて行く姿を見よう」とする。
三歳の少女は父母にも抱かれずに、風の空洞を吹くやうな声を残してそのまま瞑目してしまつたのである。(虚子『落葉降る下にて』)。虚子は、美しい子だった六に白の面影を見ていた。
白芥子の咲かで散りたる我子かな 虚子 大正3年5月
また、昭和4年には、六を一番可愛がってくれた三女の宵子の娘が生れて八十日ほどで風邪で死んでしまう。我が子の死も悲哀の極みだが、孫の死もまた切なるものだった。虚子は、
雛よりも御仏よりも可愛らし 虚子 「ホトトギス」昭和4年4月
という句を『贈答句集』のなかに残している。
我が子と孫の死を引き受けざるを得なかった虚子は、俳句や小説によって、凡てのものの亡びて行く姿を見届ける目を通して、子規が『病牀六尺』の七十五節で言っているように「あきらめるより以上のことをやつて居る」のではないだろうか。
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