第6回
蜜柑山でもやりたまえ
さいばら天気
三鬼1933~34年の句作約140句、とは、すなわち第一句集『旗』(1935年からの句作を収録)以前の140句。ここには、連作あり、ひらがなばかりで17字をまとめた3句組あり、意外に伝統的な出来もあり。また、ラガー、防空燈、異人墓地、洋書部、裸婦、サーカス、工場祭、ホテルの灯など、近代的な素材にも手を伸ばしている。試行錯誤と言っていいのだろう一年間に、大きな成果と呼べるような句は見つからない。そのなかで目を引いた句をいくつか。
裸馬ぽくぽく捨てた煙草は草の芽に(註1) 三鬼(1934年・以下同)
野遊びの籠のくさぐさ草の上に
このあたりはちょっと今風(2010年時点の今風)の軽み・脱力があり、写生風。三鬼作としては意外な感じだ。
鞦韆の振り子とまれり手をあたふ
大きく切れずに、添えるように置く座五「手をあたふ」には、やはり「今どき」を感じてしまう。三鬼作としては凡庸の部類だろうが、悪くはない。いかにも俳句らしい興趣ともいえよう。昔も今もこのあたりにとどまる俳人・俳句愛好者はきっと多い。三鬼は俳句一年目で、このあたりを済ませていたということか。
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山口誓子の第一句集『凍港』の刊行は1932年(昭和7)。その序文で虚子は誓子を「辺境に鉾を進める征夷大将軍」と評した。「私(ホトトギス)からどっか遠くへ行っちゃったのね」というわけで、誓子を尊重しながらも、例によって冷淡かつシニカル。『凍港』は、ホトトギスなる旧体制からの離反を内外で認められたということだろう。
『凍港』刊行は三鬼が俳句を始める前年。初学における三鬼はこれに強く魅了された。
(…)私は「凍港」一巻に没頭するだけで、俳壇の事情は一切知りもせず、興味もなかった。私は「凍港」の著者と「走馬燈」選者の草城が、私より一歳、年下であることに、大層劣等感を持った。(「俳愚伝」:『俳句』1959年4月号~60年3月号)新興俳句の諸氏諸々の句作に目を向けるというより、もっぱら「凍港」一巻に心が向いていたという三鬼が、それとは別に、注目した句作があった。
(…)ある時「走馬燈」の会で、先輩の幡谷(東吾)が「京大俳句」の藤後左右の句だといって 帰国して密柑山でもやり給へ を披露し、幡谷も私達も大いに笑った。笑ったあとで、私はこの句が、従来の俳句的発想と古い表現を脱ぎ捨てていること、ユーモアがあってのびのびしていること等に次第に感心し、同じ作者の 室内や暖炉煙突大曲り 横町をふさいでくるよオーバ着て という句を知るに及んで、ウーンと唸り「凍港」の他にも、こういう句があるなら、遅まきながら大いにやる甲斐があるぞと、今から考えれば、とんでもない野望を抱いたのであった。(前掲)三鬼にしてみれば、「帰国して」という部分で妙に自分に引き寄せて読めたのかもしれない。兄らから、「帰国して、地道に歯科医をやりたまえ」などと説教を食らっていたかもしれぬ。そう想像すれば、三鬼の大笑いは、さらにコクの深いものとなる。
私は「俳愚伝」を読んで初めて「帰国して蜜柑山でもやり給へ」という句を知り、藤後左右(とうごさゆう)という俳人(註2)を知ったのだが、この句の飄逸、趣向、力の抜け方にはちょっと驚いた。「凍港」の世界とは、まあ、対照的と言っていいだろう。「密柑山」の句が「凍港」とともに三鬼を俳句に導いたという事実は、なかなかに楽しいことである。
(つづく)
(註1)「ぽくぽく」の後半は繰り返し記号。以降、断りなく同様処理。
(註2)藤後左右(1908 - 91)は他に…
チキンライスと滝の睡眠不足な味
山羊が来て苦労をともにすると云う
志布志の家百舌と女が走っていた
大文字の大はすこしくうは向きに
…といったおもしろい句を残している。
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藤田左右は、ホトトギスの4Sばかりか青邨、風生、草田男、茅舎、たかし等、錚々たる俳人たちが巻頭句を犇めき競う昭和五年の六月にいきなり巻頭句で躍り出、十二月にも巻頭句を取り、俳壇を驚かした若手スターでした。後に面白い686口語俳句を提唱しています(「新樹ならびなさい写真撮りますよ」という句は有名)。今は前衛俳句を詠んでいる馬場駿吉と並んで、「ホトトギス」巻頭句を取っていて、ぶっ飛んで行った俳人の一人ですね。
返信削除わたくしが好きな藤後左右の巻頭句は、
山見えぬ山ふところの栗林
知らぬ子とあうてはなれて栗拾ふ
秋祭すめば女は紙漉きに
デビューした時から脱力系(笑)。今ですと中村十朗さんかな。
左右はこのとき22歳。誓子は10代から虚子の指導を受けていたので、10代にして巻頭句ばんばん張ってた天才ですので、このとき20歳。昔の「ホトトギス」の方が「週俳」よりも比較にならないほど俳人たちは若かったのです。
凍港(1932)時点でも、誓子31歳、左右24歳ですね。
返信削除んんん、若い。
ちなみに虚子は58歳。
>10代にして巻頭句ばんばん張ってた天才ですので、このとき20歳。
返信削除あ、すいません、山口誓子は明治34年(1901)生れなのに、明治43年と勘違いしました。したがって、このとき誓子は27歳。誓子が「ホトトギス」に載り始めたのは19歳からですが、巻頭句は大正13年10月からですので、誓子23歳から。
それと虚子全集月報の誓子の「遠き日の思ひ出」や『誓子俳話』の「句による自伝」を読む限り、句集『凍港』当時は誓子は虚子と良好な関係で、「辺境に鉾を進める征夷大将軍」とは、誓子が樺太で少年時代を過ごし、樺太を回想する句を大正十三年以降発表して「流氷や宗谷の門波荒れやまず」や「送り火やよもの山扉は空に満つ」や「唐太の天ぞ垂れたり鰊群来」でばんばん巻頭句を張った「辺境」シリーズの句を指しています。虚子の序文も「俳句は花鳥諷詠詩であるといふ私の所論を肯定して、其為に所謂正確緻密なる論歩を進めつつある」ですから、誓子も学生時代の論文をすべて「ホトトギス」に載せてくれたことに感謝し、子規と虚子の関係を、虚子と誓子と置き換えて感激していますので、「冷淡かつシニック」ではないと思いますが。誓子が「俳壇のフリイ・ランサア」になることを望んで「ホトトギス」を脱退し、「誓子追討座談会」(!)が組まれ、誓子が「馬酔木」に「行儀見習いに行った」(誓子の言葉)のは、『凍港』以後のことではないでしょうか。
誓子の戦時中の態度も面白く、シンガポール陥落の句を詠めと求められて、のこのこ病人の癖に富田駅の陸橋まで出かけて句を捻っていると、スパイと間違われてのこのこまた帰ってくるところなど変におかしい。
また「海に出て木枯帰るところなし」という句が特攻隊の片道飛行を念頭に置いて詠んだ追悼句だというのも、いやあな自解で、「俳句研究」で自壊シリーズ、じゃなかった自解シリーズが始まって、岸本尚毅などが書いているそうですが、解説を自分でしなければならないような俳句を詠むなよと、自分自身に突っ込みを先ず入れて欲しいものです。
とりとめのない話で失礼。
「辺境に鉾を進める征夷大将軍」の件。微妙なところだと思います。
返信削除ホトトギスの「本流」ではなく「傍流」と見なす、という解釈は、軽くですが、三鬼もしています。
史実の真偽追求は、コモエスタ三鬼の本旨ではないので、これからも詳しく論じることはしません。
で、さっき、凍港の序文を全文読んでみましたが、やはり微妙です。「一番早く俳句を見棄てる人は~」うんぬんとの書き出しからして。
しかし、まあ、私があてた冷淡・シニカルという語は、ちょっと違うな、という気はしはじめました。