春の部(二月)雪解
猫髭 (文・写真)
雪解川名山けづる響かな 前田普羅 大正4年
「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子が「ホトトギス」大正3年の正月号に書いた、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎と並び大正時代の虚子門四天王と称された前田普羅の清冽な一句である。
この句を収めた『普羅句集』には、自筆の「小伝」が付いており「大正元年七月はじめてホトトギスに投句す、時に横浜にあり。爾来大正九年又は十年頃まで断続して投句せしやに記憶す、ホトトギスへの投句は生涯の最初にして最後の投句なり、大正十三年五月職務のため灰燼の横浜より(註1)未知の越中に移る。越中移住後は俳句の機会多かりしも、職務繁多のため(註2)之れに傾倒する能はざりき。昭和四年末「辛夷」(註3)の経営に当る、且つ越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山嶽の偉容とは、次第に人生観、自然観に大なる変化を起しつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る」とある。句集は他に『春寒浅間山』『飛騨紬』『能登青し』三部作。虚子の言葉に添ったように新学社の近代浪漫文庫22は『前田普羅・原石鼎』を組んでいて簡便。
「小伝」中にみずから述べているように「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と山嶽の偉容」を詠ませたら、掲出句も素晴らしいが、普羅の右に出るものはあるまい。
駒ケ岳凍てゝ巌を落しけり
奥白根彼の世の雪をかゞやかす
雪山に雪の降り居る夕かな
「ホトトギス」投句以前の普羅の消息は、虚子の『進むべき俳句の道』の「前田普羅」の項に詳しい。虚子宛の普羅の手紙を虚子が公開して話しているからである。これは石鼎などもそうで、まるで人生相談のように彼らは虚子に頼り、虚子も親身に相談に乗っている。大正当時の師弟関係の一端を覗かせるものとして興味深い。『普羅句集』にも、「初めて虚子先生に見ゆる日」と題して、
喜びの面洗ふや寒の水 普羅
という句を詠んでいる。波多野爽波も「ホトトギス」に投句する時は、必ず手を洗って背筋を正してから机に向かったという。師恋にひとしい。
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わたくしの手元に一冊の古書がある。改造社「俳句研究」昭和17年5月号である。「敵機最初の帝都来襲は、校了前の印刷所出張中のことであつた」と編纂後記が始まる戦時中であり、「このことは戦争といふものが決して何千里の彼方に行はれることではなく、我々の国土そのものが戦場であるといふことを、現実感情として我々の胸に一層強く植付けることにはなつたであらう。もはや前線も銃後も一つのものである。銃後の我々と雖も、大君のもと捨身して死地に赴くことが出来るのである」と編纂の山本三生は恐い事を述べている。
この号に前田普羅の「国家が文学統制を要する場合-危態、世界主義的俳句論-」という寄稿がある。これは普羅が請われて越中のある工場に俳句を教えに行った時に、東大経済学部出身の若い幹部に、季感を必要とするために俳句詩の世界的進出が否められるのであれば、季感に関連を持たない方が、俳句が世界的に進出する機会を多からしめるのではと言われて、普羅が立腹してかなり居丈高な書き方をしている文章である。
日本を忘却する如き教育を受け、新しき学問と云ふだけの自負の下に、浅墓にも日本民族性に深く根ざす文学芸術に批判を加ふる門外漢が、組し易しとして俳句に口を出す事が多くなつたのは、近年の著しい俳壇の情勢であつた。又甚だしい通弊でもあつた。従来俳句の批判が常にかゝる浅墓至極なる者の手に依り口先により、面白おかしく劣性なる俳壇人を左右した傾向は恐怖に値する。俳句は先づ壮麗だが愚にも付かない世界主義的文学論の煙幕から脱出し、せまくとも内に深く反省包蔵するの勇気を持たねばならない。虚子であれば、言わせておけばいいと黙殺するだろうが、普羅は「恐怖に値する」と、強制と感じたようだ。まるで桑原武夫の『第二芸術論』を念頭に置いたような筆舌だが、桑原の論は戦後であり、世界俳句の夏石番矢もまだ生まれていない。ここから普羅の論は飛躍する。
こゝに於て私は、文芸活動に対する国家の指導と或る時には統制とを考慮しなければ成らない。もともと文学芸術は突き詰めれば常に至上主義に達し、其処に絶対なる自由主義的世界を幻出せしめなければやまないので有る。文学芸術に至上を求むるならば、一応は此の至上主義自由思想は許されてよいが、危険の種子は其処に発芽して、風に逆らう大樹たらんとしてゐる。私は言ふ、文学芸術にも国家統制の手を加えねばならぬ、と。古代ローマが繁栄した原因の一つとして清貧に甘んじていたからで、文化が高まると同時に、快楽の追求が激しくなり亡びたという、『ローマ帝国興亡史』のギボンや『ローマ人の物語』の塩野七生が聞いたら仰天するような大雑把な史観が、レッシングの「ラオコーン」を我田引水して展開するが、支離滅裂なので割愛。
何となれば、文学芸術は飽くまでも快楽を目ざしたものである。少なくとも快楽を通じて人生に浄化せんとするものである。快楽を追求する人間性は止む時が無い。そして快楽の追求のために国も民族も亡びるのである。民族の血と繁栄とを永遠につづける為には、文化に殊にその一面なる文学芸術に永遠に国家が統制の手を加へ、至上主義に陥らぬやうにせねばならぬ。
わたくしが最も注目したのは次の発言である。
俳句に国家統制の時代の有つた事も忘れてはならぬ。しかも余り遠くない過去に於てだ。その統制が俳句の名誉作者の名誉のために有つたとは考へられない。非日本的な俳句作者に対して求めた転向なのだ。一種の刑罰だつたのだ。如何にも残念な事であつたけれど、見方によれば為政者が自ら誤り育てた事に鞭を加へて不心得を叱つたのである。共に共に、祖国愛、国土報恩の思念の下に立つたならば、再び鞭を振ふものも、又鞭うたるゝ者も無いのではあるまいか。若し又文学者芸術家にして、このわきまへなき時こそ、国家は絶大なる統制力を加ふるべきである。普羅が言う「俳句に国家統制の時代の有つた事」とは、昭和8年の京大「滝川事件」を発端とする自由主義的な言論への弾圧が、昭和15年2月14日の第一次「京大俳句」弾圧事件にまで波及した、昭和18年12月6日の「蠍座」(秋田)弾圧事件までの4年間にわたる一連の新興俳句弾圧事件を指すと見て間違いないだろう。
この時検挙されて投獄された俳人橋本夢道の『橋本夢道全句集』(未来社)を読むと、当時、反体制で逮捕されたために苛酷な赤貧を強いられて、「不心得を叱つた」というような生易しいものではなかったことがわかる。
この新興俳句弾圧事件の黒幕とされたのが、日本文学報国会の常務理事である小野蕪子だった。俳句部の会長だったのは高浜虚子だが、虚子は戦時中は「ホトトギス雑詠」の選に没頭して「花鳥諷詠」を貫いており、戦争咏は「八月二十二日。在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の需めに応じて」と題した、
敵といふもの今はなし秋の月 虚子 昭和20年
という、見方によっては随分とぼけた一句だけだった。
問題は、新興俳句弾圧事件の際、特高の警部が挙げた密告者の中に、小野蕪子と並んで前田普羅の名前があったことだ。(註4)
普羅が密告者だったかどうかはわからない。だが、この一文を見る限り、自由主義的新興俳句を「恐怖に値する」と恐れ、官憲の弾圧を「至上主義に陥らぬやうに統制力を加ふるべきである」と容認していたのは間違いない。
ただ、わたくしは作者の政治的な思惑と作品の表現してしまったものは必ずしも紐づけられるものではないと考えているので、作者=作品という方程式は採らない。普羅が密告者だとしても、作品の素晴らしさを貶めるものではないと思う。逆説的だが、前田普羅という作者を殺すまでに作品は作者から自立して輝いていると言えなくもないのである。
(註1)大正12年9月1日、関東大震災。普羅一家が九死に一生を得た経緯は普羅の随筆「ツルボ咲く頃」に詳しい。
(註2)報知新聞富山支局長。
(註3)昭和4年より前田普羅主宰。昭和21年の戦後復刊時の表紙を飾っていたのは福光町(現南砺市)に疎開していた版画家の棟方志功。
(註4)田島和生『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』(思文閣出版)
後半、別記事にしたほうが良かったのでは、と思うくらい面白いです。
返信削除「文学芸術は飽くまでも快楽を目ざしたものである。」と言うから、個人の解放に論旨が進むのかと思ったら、「文化に殊にその一面なる文学芸術に永遠に国家が統制の手を加へ、」となる。
俳句作品と作者の言説は、分けて考えなかればならないこと、今アタマにとどめておきたいです。
「文学芸術は飽くまでも快楽を目ざしたものである。」はバタイユ的ともバルト的とも。「文化に殊にその一面なる文学芸術に永遠に国家が統制の手を加へ、」はスターリン的。
返信削除この落差があの時代を生きた普羅そのひとらしさだったのでしょう。いい悪いでゴールから見たら普羅も俳句も見誤ります。
戦時中、戦後をどのように日本人が生きたかは、思想の科学研究会が「転向」の共同研究をやったり、吉本隆明と花田清輝が論争やったりしていましたが、俳人の戦争責任論は寡聞にして知らなかったので(探せば山ほど出てくる部分と沈黙の部分があると思います)、普羅の一文を読んだ時は、作品論とは別に俳句界でもこの辺をきちんと見直す必要があるのではないかと感じていたので、少し触れてみたものです。同じ号の柴田宵曲の「鳴雪翁の俳句」など時局に同ぜず人間と作品を見据えた見事なものでした。
エピソード的には、茂吉は、戦時中は今すぐ電話口で戦勝句を詠めとせっついた新聞社が、戦後一転戦争責任を非難する変わり身にうんざりしていますし、太宰も、馬鹿な親でも知らない奴にぼこぼこに殴られていたら知らん振りは出来ねえだろうと愚痴っており、これらは人間味がありますが、普羅はマジで目が▼▼になってますね。「ねばならぬ」「べきである」は何語でも息苦しい。
詩人の正津勉さんが普羅の大ファンと言っていたので、碧悟桐の「三千里」論が終わったら普羅論に取り組んでくれるかも知れません。
三鬼は統制された方ですから、天気さんの連載も、いずれこの話題は避けて通れませんね。