コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第11回
微熱中年
さいばら天気
熱ひそかなり空中に蠅つるむ 三鬼(1936年)
微熱と蠅の交配の二物については、(今なら特に)いわゆるツキスギとする向きもあろうが、体内と外界が微熱でつながるような趣がある。
微熱の句は同時期(1936年)の作にほか何句かある。
微熱ありきのふの猫と沖を見る 三鬼(1936年)
ダグラス機冬天に消え微熱あり 三鬼(1936年)
身体にまつわること(微熱)と遠景の対照。
猶太教寺院の夕さり閑雅なる微熱 三鬼(1936年)
「猶太教寺院」に「シナゴグ」のルビあり(『空港』再録時は「シナゴーグ」)。猶太教はユダヤ教。「閑雅なる微熱」は、初期三鬼の句全体に備わる感触と言えなくもない。
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微熱という語は、それだけで詩的なイメージを喚起するので、俳句には収まりにくく、また、個人的な事情を申せば、松本隆という作詞家、「はっぴいえんど」という日本語バンドで作詞キャリアをスタートさせた作詞家の、おそろしく叙情的な歌詞に、当時から居心地の悪さを感じてきた者にとっては、その小説タイトル「微熱少年」がマイナスに作用してくれる側面も大きい。
微熱+少年
ひゃあ、助けて!かんべん!と叫んでしまう強力な抒情セットを被爆したのち、三鬼の句を読まねばならない不幸をいまさら言ってもしかたない。抒情の悪夢を払拭するために、三鬼の句を読めばいいわけだが、いかんせん「ダグラス機」の句は、払拭には逆効果の、拭いがたい抒情が備わり、併せて、やや凡庸な把握にも思える。
遠近、すなわち風景と身体の対照は、俳句において、手堅い仕上がり、もしくは量産可能なシステムにも、今となれば思え、その意味では、冒頭に挙げた「熱ひそかなり空中に蠅つるむ」くらいの空間意識のほうが、俳句の強みを発揮できるのだろう。
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ついでだから、俳句全般から「微熱」を拾ってみる。
微熱あるかに白梅の花いきれ 上田五千石
花どきの微熱かがよふごときかな 平井照敏
木の花と微熱は相性よく照応する。
微熱もつくちびる青き花菖蒲 高澤晶子
白梅の微熱のそばに兄ありぬ 宇多喜代子
なまめかしい。
湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り 小澤克己
詩的な把握。
また微熱つくつく法師もう黙れ 川端茅舎
こんなふうなら、なかなか即物的。けれども感興という点ではどうなのだろう。
(つづく)
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