2010年3月23日火曜日

●コモエスタ三鬼11 微熱中年

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第11回
微熱中年

さいばら天気


熱ひそかなり空中に蠅つるむ  三鬼(1936年)

微熱と蠅の交配の二物については、(今なら特に)いわゆるツキスギとする向きもあろうが、体内と外界が微熱でつながるような趣がある。

微熱の句は同時期(1936年)の作にほか何句かある。

微熱ありきのふの猫と沖を見る  三鬼(1936年)

ダグラス機冬天に消え微熱あり  三鬼(1936年)

身体にまつわること(微熱)と遠景の対照。

猶太教寺院の夕さり閑雅なる微熱  三鬼(1936年)

「猶太教寺院」に「シナゴグ」のルビあり(『空港』再録時は「シナゴーグ」)。猶太教はユダヤ教。「閑雅なる微熱」は、初期三鬼の句全体に備わる感触と言えなくもない。



微熱という語は、それだけで詩的なイメージを喚起するので、俳句には収まりにくく、また、個人的な事情を申せば、松本隆という作詞家、「はっぴいえんど」という日本語バンドで作詞キャリアをスタートさせた作詞家の、おそろしく叙情的な歌詞に、当時から居心地の悪さを感じてきた者にとっては、その小説タイトル「微熱少年」がマイナスに作用してくれる側面も大きい。

微熱+少年

ひゃあ、助けて!かんべん!と叫んでしまう強力な抒情セットを被爆したのち、三鬼の句を読まねばならない不幸をいまさら言ってもしかたない。抒情の悪夢を払拭するために、三鬼の句を読めばいいわけだが、いかんせん「ダグラス機」の句は、払拭には逆効果の、拭いがたい抒情が備わり、併せて、やや凡庸な把握にも思える。

遠近、すなわち風景と身体の対照は、俳句において、手堅い仕上がり、もしくは量産可能なシステムにも、今となれば思え、その意味では、冒頭に挙げた「熱ひそかなり空中に蠅つるむ」くらいの空間意識のほうが、俳句の強みを発揮できるのだろう。



ついでだから、俳句全般から「微熱」を拾ってみる。

微熱あるかに白梅の花いきれ  上田五千石

花どきの微熱かがよふごときかな  平井照敏

木の花と微熱は相性よく照応する。

微熱もつくちびる青き花菖蒲  高澤晶子

白梅の微熱のそばに兄ありぬ  宇多喜代子

なまめかしい。

湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り  小澤克己

詩的な把握。

また微熱つくつく法師もう黙れ  川端茅舎

こんなふうなら、なかなか即物的。けれども感興という点ではどうなのだろう。

(つづく)

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