【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2
山口優夢
「ないないづくし」 樋口由紀子
縄梯子だらりと垂れて泣いている 樋口由紀子
並べられた七句のほとんどは、彼女を取り囲む現実ではなく、彼女がそれに対してどのような意識を向けているか、ということを忠実に写し取ることに努力がはらわれている。「思い出せない」「牛じゃない」「なかったことにする」「気づかぬままに」「違いない」「無関係」そして、それらが全て否定語を伴っていることは、注目に値する。
否定、とは、他の全ての可能性を取り置きにしておくこと、である。だから、彼女の句の世界はひどくあいまいになる。台所に立っているのは牛じゃないんなら、一体なんなんですか?しかし、彼女は「牛じゃない」ということを力を込めて句にする。
ありきたりな言葉で言えば、それらが志向するのはもちろん存在の不確定さ。不安定さ。どんなにはっきり認識しても最後まで残ってしまうあいまいさ。それは、棘のように体の内部に残る不安。
しかし、そんな「ないないづくし」の中で掲出句だけは、そのような否定の言葉が入っていない。「泣いている」に「ない」をひっかけているのだろうか。おそらくはそうではないであろう。この七句を通して、否、ひょっとしたら、彼女の認識のあいまいな世界全てを通して、全体を閲していったときに唯一最後まではっきりとした存在として残るものが、この泣いている縄梯子、なのではないだろうか。
そう考えると、この縄梯子の戦慄が思われてくる。
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「起動力」 小池正博
満身に抹茶をまぶし武装する 小池正博
ナンセンスな取り合わせによって形成された句群、という印象を受ける。「梅」と「胎内」、「抹茶」と「武装」、「サフラン」と「大きな物語」など。
彼の句は、取り合わせ自体がナンセンス、というよりも、二つの関連のない要素が登場するとき、俳句と違って「切れ」という構造が用いられず、あたかも意味的なつながりがあるかのように書かれるために、そのつながり方をナンセンスと思うのだ。二つの要素が組み合わされることで詩が生まれるのではなく、どこまでもナンセンスな印象になるのは、組み合わされる二つの要素の間に何か新たな詩的関連性を構築する意図がおそらく存在しないからではないだろうか。
つまり、現実世界に還元されない、言葉の世界の中で閉じた取り合わせ、という印象があるのだ。その最も顕著な例として掲出句を挙げた。
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「鹿肉を食べた」 広瀬ちえみ
鹿肉を食べた体を出ることば 広瀬ちえみ
何と言ってもこの句が彼女の中では一番面白いであろう。鹿肉がまるでことばに変化してしまったような印象、否、もっと言えば、自分の体というものが、鹿肉をことばに変換するための機械のように捉えられている。
彼女の句にある肉体感覚は、石部のものと比べて、全体として非常に有機的で、安心する。しかし、そうであっても、掲出句では感覚的な単純化が生の実感を希薄化している印象がある。そこに興味を覚える。
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川柳と俳句の違い、彼らの句と我々の句の違い、それは、僕にははっきりとは分からない。なんとなく違うような気もするけれども、明文化できない、ひょっとしたら大して違わないのではないかと言う気もしないではない。
しかし、そのような差異よりももっと気にかかるのが、彼らの抱えている現実感の希薄さなのだった。これは、川柳だから、なのか。それとも、俳句は、季語がある分、現実を実感していると錯覚しているだけなのだろうか。
(了)
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