【週俳第150号を読む】
名前がふたつ
田島健一
うしろ頭のうつろの中にお賽銭 広瀬ちえみ
この句、すき。うつろな空間把握のなかに、ひゅーんとお賽銭がとんでゆく。なにか感覚をつーんと引っ張られるような感じがある。
ところで、こんなことを書くと怒られるかも知れないけれど、実は、俳句と川柳は同じものなのではないか、と思っている。
同じものを違う名前で呼んでいる、というのはよくあることで。
だから私たちにとって、俳句が俳句であることや、川柳が川柳であることは、じつは「結果」ではなくて「始まり」なのではないか、と。
名前の違うものがふたつあるから、それがそこにあるのは何か理由があるのではないか、と多くの人が俳句と川柳の違いについて説明しようとするけれど、実は、違いがあるから違う名前があるのではなく、違う名前で読んでしまったために、その違いを説明せずにはいられない、ということなのではないかな、と。
ミモフタモナイ、と言われてしまうかも。
でも、大事なことは、俳句とは何か、川柳とは何か、俳句と川柳は何が違うか、と問うことではなく、私たちが川柳のなかに俳句の姿を見ており、俳句のなかに川柳の姿を見ている、という事実にあるのではないだろうか。
俳句とか、川柳とかになるまえの、混沌としたことばの世界があって、そこに「主体」が立ち上がることでその混沌が「俳句」になったり「川柳」になったりする。でも実は「主体」にとって、それが「俳句」であるか「川柳」であるか、ということはあまり問題ではないのかも。
そのことばの混沌が常にかかえている困難な核があって、それを人々は経験的な「俳句」の言語セットで捉えてみたり、「川柳」の言語セットで捉えてみたりしている。
そう考えてみると、いわゆる「いい俳句」と「いい川柳」のパフォーマンスは変わらない。
それが「俳句」と呼ばれていても、「川柳」と呼ばれていても、その作品のなかにはその作品以上のものが含まれていて、それが「俳句」であることや、「川柳」であることを常に脅かしているのではないだろうか。
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