夏の部(六月)鰹・上
猫髭 (文・写真)
船著けばたちまち立ちぬ鰹市 名古屋 中根道草(註1) 昭和11年
鰹さげて門の娼婦に話しかけ 伊豆 関萍雨(註2) 昭和12年
那珂湊は、白亜紀層の岩盤が海に露出してミネラルが溶け出し、黒潮と親潮の接点でもある豊かな魚場を沖に持っているから、鰹が黒潮に乗って北上し、丁度5月から6月、まさに「目には青葉」の頃に常陸沖を鰹が通るので、鰹船は茨城県内唯一の鰹の水揚げ港である那珂湊漁港に水揚げして競りにかけるので、昔は焼津を抜いて那珂湊が日本一の鰹の漁獲量を誇る港だった。まさしく「船著けばたちまち立ちぬ鰹市」だった。今でも5月のGW前後は初鰹の水揚げで賑わうが、昔ほどではない。那珂湊は鰯漁が盛んで、道端には鰯が干されて山と積まれており、鰯の活き餌を使う鰹漁には打って付けだったこともある。今は鰯が獲れなくなり、鰯獲りの名人もたった一人の老漁師だけになってしまったと聞く。
今は、那珂湊と言うと「お魚市場」という、土日は我が家の前まで県外から来る観光客で賑わう市場で有名だが、地魚よりもロシアや中国や県外の魚の方が多い観光客用の市場で、冒頭の写真も、千葉県産の一匹1500円の「房総初鰹」である。観光客用というのは、「お魚市場」は鮮度を値段の安さで割り引くところがあるからで、地元の人間はわたくしも含めて、昔ながらの地物を売る魚屋で買うし、もっとすれっからしは、漁師と地縁血縁が多いから、「お魚市場」のドックの向かい側にある魚市場の競りのときに、仕入れ値で分けてもらう。我が家はそういう抜け駆けはしない。実家が船舶無線の販売と修理が家業なので、漁師達が只でお裾分けしてくれるからである。あ、一番タチが悪いか。
黒潮を秋口に南下して産卵に向かう「戻り鰹」は、脂が乗り切っているから、当たり外れは余りない。しかし「上り鰹」、いわゆる「初鰹」は、これから鰯や沖醤蝦(おきあみ)を食べて肥えるから、脂の乗りよりも香りを楽しむ魚であり、鮮度が命だが、かと言って鮮度が良いからうまいかというと、硬いだけでうまみが足りないので、ちょうど良い具合に脂がうっすらと乗った初鰹に出会うのは稀である。捌いてみないとわからない魚なのだ。したがって、鰹の漁港と言われるには競りの目利きである一本釣の仲買がいないと成り立たない。港だからどこでも鰹が水揚げ出来るわけではないのである。活き餌の鰯、目利きの仲買、ベルトコンベアと氷結機能がなければ鰹の漁港足り得ない。
母の話だと、家の前を捩り鉢巻をした漁師たちが札びらを切って歩いていた頃は、那珂湊にも女郎屋があったそうで、特に大洗は、海門橋(かいもんばし)の大洗への玄関である祝町に上る坂沿いにずらりと遊郭が並んでいたという。ずっと昔と言うから、どのくらい前のことだと聞くと、10年前だという。んな馬鹿な。海鳴に女郎たちの泣く声が聞こえるので、今でもその辺りの土地は売れないと母は恐いことを言うが、実家の向かいにはひたちなか市民謡連合の会長だった白土先生が住んでいるので、昔の話を聞くと、遊郭があったのは売春防止法が施行された昭和31年頃までだっぺと言う話である。だっぺな。
この白土先生の話が面白かった。驚いたことに日本三大民謡として名高い「磯節」の合いの手がその遊郭の女郎さんに関わる。
磯で名所の大洗さまよ 松が見えますほのぼのとと合いの手が入るのだが、祝町の女郎屋の坂が磯坂(いささか)と言い、そこをりんりんと馬車の鈴を鳴らして女郎を買いに行く。道路の向い側は天妃(てんぴ)さんと地元で親しまれる海の守神の神社があり、この遊郭のある山をどんどん山と言う。それと「好きになったらどんどんお出で」を掛けているらしい。サイショネーというのは「磯節」の合いの手として有名だが、調子を取るための意味のない合いの手だと思っていたが、「回し(遊女が客を何人も掛け持ちして取ること)はしないであなたが最初の相手よ」という意味だと。仰天。祝町の船着場の上にある岩は「呼ばれ岩」と言って、女郎衆が向こう岸の男衆を呼んだために名づけられたそうな。いやはや、この世学問である。
(合いの手:いささかりんりん 好かれちゃどんどん はあ~さいしょね)
祝町の遊郭と渡し舟を作ったのは水戸黄門様で、元禄8年(1695年)、光圀により那珂川対岸の祝町に遊郭が置かれ渡船も設けられた。黄門様や岡倉天心御一行様はじめ、多くの著名人が祝町にゆかりがあるのは男衆の道理であるとは、白土先生の御明察なり。女郎買いに来てたのかよ、天心さん。ハア、サイショネー。
海門橋が掛けられるまで、那珂湊の最盛期には一日700人から800人がこの渡しを利用したという。船橋聖一畢生の名作『悉皆屋康吉』にもこの渡しの話が出て来て忘れ難いが、わたくしも子どもの頃、磯浜(現大洗町)の母の実家へ遊びに行くのに利用していた。渡し賃は確か10円だったと思う。昭和31年までは、この渡しを使って「鰹さげて門の娼婦に話しかけ」といった景も見られたことだろう。
掲出句は、『ホトトギス雑詠選集』では「鰹」という季題に載っているもので、「初鰹」はない。『新歳時記』には、「初鰹」と「鰹」と季題を分けて立て、掲出句は「鰹」に入る。掲出句に、名古屋と伊豆という地名を記したのは、「初鰹」は、「江戸時代には、その夏初めて漁獲された鰹を特に珍重する風習があつた。鎌倉から来るものは特に有名で、相州の初鰹といつて江戸ッ子に歓迎された。初松魚。」と『新歳時記』にあり、江戸時代に女房を質に入れてでも江戸っ子が見栄を張って初鰹を珍重した故事が有名なので、伊豆や名古屋まで南下すると、初鰹とは言わないためである。
「鰹」の解説には「鰹は暖流に乗じて回遊する活発な魚で、東海方面では初夏はじめて其姿を現はす。これが初鰹であるが、盛漁期は真夏の頃だ。土佐・房総は有名な産地で、天候静穏の時、夜中から沖に漕ぎ出し、長い竿で生鰮を餌にして釣る。鰹釣。鰹船。」とあり、
松魚船子供上りの漁夫もゐる 虚子
の句が末尾に載る。『ホトトギス雑詠全集』を調べた限りでは、初鰹の句は虚子の一句のみであった。
江戸滅ぶ俎板に在り初鰹 鎌倉 大正2年 虚子
(註1)中根道草(なかね・みちくさ)は名古屋の俳人とのみしか分からない。漱石の妻、中根鏡子にちなんで「道草」と号したわけでもあるまいが。
(註2)関萍雨(せき・ひょうう)明治13年~昭和32年。本名は正義。旧号は飄雨・縹雨。
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