2011年2月10日木曜日

●真剣なぺらぺら 鳴戸奈菜句集『露景色』 上田信治

真剣なぺらぺら
鳴戸奈菜句集『露景色』  上田信治

関悦史さんが、豈weeklyで引いていた〈平目より鰈が好きでよい奥さん 鳴戸奈菜〉という句が、ずっと気になっていた。

これは、宇多喜代子さんが、小林恭二さんとの対談で挙げていた〈生協の車来てゐる山茶花垣 橋閒石〉という多分、句集に入っていない句と同じ「気になり方」で、要するに、なぜ、この「これ」でなければいけないのか、作者の、やりたいところ、見ているところが、パッとは分からない。

囲碁に喩えれば、盤上(あるいは碁盤の外か)の意外すぎる場所に、置かれた一手。しかも、その石を置いたのが、多くの人の尊敬を集める練達の棋士であるゆえに、控え室も、解説者も「うーーーーん」と言って、考え込んでしまうような。

それは、囲碁的にはどうにも意味をなさない一手であり、単なる「気まぐれ」に見える。しかし、ひょっとしてひょっとすると、指し手の意図は、その一手を内容に含む「新しいゲーム」を提案し、それを「囲碁」であると僭称することにあるのではないか。

そういうことを気にしつつ、鳴戸さんの新しい句集『露景色』を読んだ。

梨の実の腐りやすしよお姉さん

お兄さん花野に花のなかりけり

こんな句があった。中味はあからさまに人生訓で、通常の俳句的基準に照らせば、危きに遊ぶどころか、余裕でアウトかもしれないが、しかし「俳句は、中味ではない」。勝負所は「お姉さん」「お兄さん」という呼びかけの、通行人に向けられているかのようなぺらぺらな口調にあって、そのたよりない風情に、カジュアルな哀しみが託されている(言ってしまえば、それは話者の分身であり、過去の亡霊である)。

胡瓜揉みきのうはむかし遠い昔

降り止まぬ雨などなくてななかまど

「胡瓜揉み」のk音とm音が、「きのうはむかし」のフレーズを連れてきていること、「雨などなくて」の「な」(特にa音)が「ななかまど」を連れてきていることに注意しておきたい。口調が作品を律するということが、作者のたくらむ「新しいゲーム」の一つの属性であるようだ。

汽笛一声ヒヨコが咲いたよヒヨコが

「ヒヨコが咲いたよヒヨコが」というだめ押しのリフレインも、口調が作品を律していることの現れであり、そこには、汽笛が鳴くように鳴るから「ヒヨコ」が、そしてもくもくと出る蒸気から「咲いた」が、連れてこられるイメージの連鎖がある。

「胡瓜揉み」の句には耕衣の〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉が響いていようし、「汽笛一声」の句には、蒸気機関とヒヨコという質量から何からことごとく違うものが一つになるという法悦がある。「ななかまど」の句の止まない雨には、七生の輪廻のどこまで降り続くのかという裏筋があって、それぞれに内容と魅力があるのだが、「お姉さん」「お兄さん」「奥さん」の句と並べてみると、そこには、五七五を一見ぺらぺらに見えるほどに軽く使う、という、ひとつの態度が見えてくる。

態度と書いてエートス(≒倫理)と読む。

本句集で〈径子さんの微笑み渡る冬青空〉と追悼句を捧げられている清水径子は、ときに生硬と感じられるほど重たい内容と、それほどは重たくない文体による書き手であったが(〈野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる〉〈くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ〉〈慟哭のすべてを蛍草といふ〉)、最晩年〈ねころんでいても絹莢出来て出来て〉〈さびしいからこほろぎはまたはじめから〉〈ちらちら雪弟よもう寝ましたか〉のような、口調と内容が一体となった、自在さの印象を与える作品を遺した。

鳴戸さんの近作は、その地点から書き継がれている──と言ったら言いすぎだろうか(もともと〈形而上学二匹の蛇が錆はじむ〉と書きつつ〈牡丹見てそれからゴリラ見て帰る〉とも書く人ではある)。本句集において、「ヒヨコ」のリフレインには「出来て出来て」が響いているとも見え、その口調はますます軽く、加えて、内容も、標語や俗謡に近づくことをおそれず大胆である。

薄氷ときに厚しや世の情け

雲雀野の思い出に似てレモンケーキ

綿虫のその存在はピーヒャララ


まるで都々逸のようだし広告コピーのようだしピーヒャララなのだが、それら隣接領域の言葉よりも、ずっと無意味で非実用的であることによって、これらの言葉は俳句である──と、作者は主張しているように思える。

戦争がないなら死んでもいいですよ

これは明らかに碁盤の外に置かれた一句。倫理と自分が言うのは、この内容をこの軽さで書くという態度のことで、たとえば、党大会で発言を求めて壇状に駆け上がったヒラ党員が、興奮のあまり泣き出してしまったような、切迫と滑稽のないまぜになった口調が、その人の血を吐くような真剣さの表現としてある。

ぺらぺらであることが、なぜか誠実であることに直結している。どうして、と言われても、それはこの人のエートス(生活態度のようでも、出発点でもあるような倫理)なのだから、しかたがない。そのぺらぺらさが、一所懸命さや真面目さの結果であると、言葉面からなんとなく信じられるというだけだ。

しかし、態度が作品を成立させるということは、その文脈あるいは作者名を外した一句独立がむずかしい、ということでもあって、確かに、上に挙げた中にも、どう見ても名句ではないという句はふくまれる。しかし、それが試みだとしたら、その試み自体に対する評価抜きでは読めないということは、ぜんぜんOKではないか(あと、作者名抜きということなら、句会にこれらの句が出たら取りますよ、ぜったい)。

ちぎれ雲見ている寒い沼があり

やや片寄った句ばかり挙げてきましたが、こういうストレートな抒情もあり。この句は、沼と話者が一体となって、ただ、ちぎれ雲を映している、と取りたい。「寒い沼」という言い方は、そういうことだろうと思う。

秋のくれ堪忍袋の緒の赤し

渡辺白泉がしばしば書いてしまったような(〈松の花かくれて君と暮す夢〉〈われは恋ひ君は晩霞を告げわたる〉)俗謡っぽさがあり。五七五は、現代人にとって土俗のリズムなので、俗謡っぽさがはまると強い。

こうやって日が暮れてゆく冬の川


春の空おおきな雀が飛んでおり

叙景には、放下の感覚があり。この「雀」の中八は、きますねえ、音のずれが幻想領域にはみ出していく。

人生は一つ目小僧佐渡に雪

人生は野菜スープ」といえば、往年の10ccのヒット曲ですが、「野菜スープ」が何でもありの言い換えだとしたら、「一つ目小僧」は、曰く不可解ということになる。そこだけ取れば(「梨の実の」と同様)、はやり唄の文句のようなワンフレーズに過ぎないけれど、人生の不可解は観念ではなく、いま佐渡にふる雪と同じくらい確固とした目の前の現実であり、人が人生を直視しようとすると現れて、どいてくれない。

鳴戸奈菜さんの『露景色』は、面白い句集でした。

なにもかも天麩羅にする冬の暮

買いこんだもの、冷蔵庫に残ったものの、なにもかもを天麩羅にしていく、その「冬の暮」という季節には、人生の終盤ということが意識されているのだろう(晩年意識を持たれるには早いという気もするのだが)。なにもかもを揚げて空っぽになってしまったら、それは寂しいことだろうか。いや、揚げたらそれを盛大に食べるのだから、残っているその時間は、たいへんに豪華、ということになる。

3 件のコメント:

  1. 鳴戸奈菜2011/02/11 1:10

    上田信治様

    あっはっは、イッヒッヒ、うっふっふ、エッヘッヘ、おっほっほ、が私の先ずはの読後感です。でもなぜか鳴けました、いえ泣けました。ありがとうございました。明日は雪だそうです。

    Nana Naruto

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  2. 結城 万2011/02/11 17:15

    上田信治様

    「真剣なぺらぺら」という上田さんの評、実に言い得て妙でありました!俳句の素人がこんなことを書くのはなんですが、『露景色』の奈菜さんの俳句、そんな「真剣さ」と「ぺらぺら」が程良くマッチしていて、独特の奈菜ワールドを作り上げていると思うのです。つまりビシッとスーツを着ていながら、下を見たらサンダル履きというような・・・それがあざとくなくて、いかにも自然で(天然で)、本当に本当に誰も真似のできない魅力だと思います。

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  3. 読みました。

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