週刊俳句・第207号を読む
湊 圭史
「週刊俳句・第207号を読む」執筆を、というメールを頂き、「ハイ、よろこんで」と返信してから記事のリストを見て、ハタと困りました。俳句ジャンルについて門外漢の立場から気楽に、と思い込んでいたら、「佐藤雄一ロングインタビュー」と来ましたか。
私は創作としては自由詩と川柳を二枚看板としているつもりなので、しっかり対応したいところだけれども・・・。佐藤雄一さんが詩手帖新人賞の受賞者であること、現代詩ジャンルで最近とみに話題になる名前であることぐらいは知っていますが、『現代詩手帖』、最近あんまりマジメに読んでないし、今年初めの引っ越しでバサっと捨てちゃったしなあ。
ということなら、記事をスルーすればいいかも知れませんが、これがいろいろ考えさせてくれるインタビューなのですね。なので、ちょっと佐藤さんと彼の活動を深く知らない立場で、勝手論なところも出てきますが、とりあえずコメントをつらつらと書きます。
まとめれば、このインタビューは詩歌の「場」を作ろうという実践と、その背景とフィロソフィーについて、ですね。この「場」について理論的に細やかで、しかも現在形の実践であるというところで、『傘[karakasa]』によるインタビューとなったわけでしょう。「場」についての思考は(特に)短詩型に関わるものであれば、常に避けて通れない話題であります。
私にとって(たぶん、他の週俳読者にとっても)記事が分かりにくいのは、「サイファー」なるものを見聞したことがない、というところですが、とりあえず、YouTube に頼って、フムフム。ぐるりと円をつくって、順繰りにフリースタイルラップをしていくわけですね。「Bottle/Exercise/Cypher」という佐藤さんが中心になったイベントはこの方式を、詩歌で行おうというものだ、と。
HIPHOP のスタイルを取り入れて、コムヅカしくなっていた現代詩をほぐそうという運動は、記事の中でも(否定的に)紹介されている「新宿スポークンワーズスラム(SSWS)」(私が実見したのは京都で行われていた兄弟イベント「京都スポークンワーズスラム(KSWS)」ですが)が既にあって、その点では新しくはないですが、SSWSが「バトル」の型式を使っていたのが、今度は「サイファー」だということか。
んんー、これだけ読んだだけでは、うまくいくのか(いっているのか)どうかまったく分かりません。ラップについて言えば、強い定型的フォームがあって、それがバトルやサイファーなどでの即興的駆け引きを可能にしているはずです。そもそも共有するフォームなしでやって、本当に機能するのか。KSWS(やおそらくSSWS)の詩人パフォーマーたちはこのための一種の定型的フォームを求めてもがいていたという印象がある(ので、確かにカッコよくはなかったですが、後発のイベント発想者にこんなにあっさり切り捨てられると、それはナイんじゃない、という気がする)。
正直言って、「サイファー」で集まる詩人たちに同じようなカッコ悪さがないとはとても思えない。始まったばかりの「場」ですので、そうしたものに一種の可能性は見たいと思いますが、個人的には大して期待していません。そもそもラップがカッコいいと思ったこともないし、一般的にカッコいいと思われているのかしら、という疑問もあるし。(パブリック・エネミーは大好きでしたけどね。)
なら、どうしてここまで書いてきたか、というと、第207号のもう一つの長文記事「「俳句想望俳句」における自閉的ニュアンスからの脱却のために 藤田哲史」にあるような、ジャンルの「自閉的ニュアンス」から脱しなければならない、という思考がジャンル横断的に抱かれているのだ、ということを確認できたからでしょうか。
穂村弘『短歌の友人』を読んだときの印象も思い出しますが、現在はあるジャンルのなかに入ってしまうと「友人」としての立場しか取れない、換言すれば、ジャンルに直接内向するかたちでジャンル自体を否定しようとする姿勢が取りにくい現状があるのではないか。そこから一種、ジャンル内での問題を棚上げし、別の「場」を滑りこませたり、接続したりすることで、何か面白いことは起こらないか。詩歌サイファーの試みはその辺りに眼目があるのではないか(メショニックなどでの理論的補強はちょっと脇に置いておいて)。
「佐藤雄一ロングインタビュー」でなるほどと思ったのは、「文学」「純文学」(従来の大文学)に対するカウンターとしての「詩歌」というのを佐藤さんが考えているらしいところ。「詩」=「文学」というのはドグマだ、というのは私などもつねづね思っていることで、詩歌はもっと自由で、原初的でもありえるし、微視的な動きで未来をとらえる楽しみもあるのだ、というのは間違いない。そして、それを顕在化させるためには「場」の変革が必要だ、というのもその通り。
ただし、やはり、こうして実践と理論を強固に結び付けられると、それから弾かれるものが気になって、いろいろ言いたくなります。詩は文学で「あってもよい」はずだ、とか。実際のイベントの場ではもっと柔軟なはずですが、このインタビューに反映されているところだと、なあ、「文学」ぐらい「詩」が抱えてやれよ、とかツッコみたくなります。頑張ってきたのにねえ、かわいそうな「文学」ちゃん。
なんて書いていると、「「私の傷を見て、私の思いを見て」という人ばかりで、これはひどいなと思いました」と佐藤さんにばっさり切られている、2000年代のリーディング詩人たちにどんどん感情移入していきそうです(私もそうしたものは嫌いだと公言しているのですが)。実際、そうした詩人のパフォーマンスでも、ごくたまによいものはあったのですよ。また、吉増剛造のリーディングとか、福島泰樹の短歌絶叫とか、ふつうの意味でカッコよくはないけど、素晴らしいじゃないの、とか思ったり(谷川俊太郎より、よっぽど面白い、ぞ)。
とりあえず、この詩歌サイファーの試みがうまく行って、楽しい詩歌の動きが出てくればいいなと留保抜きで思います。でも、やっぱりカッコ悪いのも抱えていきましょうよ、と思うのです。何と言いますか、不純なものこそ、チカラであります。詩歌サイファーがすっかりカッコよいものになっってしまったら、そんなおしゃれな場所に出て行けないようなものが。
このインタビューのみからの印象ですので、「Bottle/Exercise/Cypher」の実情とはかけ離れたことを書いたかも知れませんが、ご容赦のほどを。
あれ、これ、本当に「週俳を読む」の記事なのか(笑)。
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