2011年5月10日火曜日

●二万年四千年あれば 1/2 上野葉月

二万年四千年あれば 1/2

上野葉月


大丈夫、二万四千年あれば放射能除去装置を開発できるよ。

これは私のオリジナルでない。上記と同傾向の冗談は3月14日の三号機爆発やその数日後の福島第一原子力発電所周辺でのプルトニウム発見の報道時にもネット上でいくつか見た。同じようなことを多くの人が考えつくことはわかっていても、まあ言いたくもなろうというものである。

とにかく現在日本が陥っている状況はあまりに見事なため何を言っても自爆的上げ足取りに終始してしまいそうな予感。こういう状況で脈絡ある発言はさすがに難しい。同時に怒りとか緊張感のようなものを何週間も維持し続けるのは難しいということを如実に感じるこの頃。ましてそれを何年間続けようともなれば生活に追われることを専らとする我が身では。

一万年二万年とは言わないが、今後かなり長い間、現代人(特に現代日本人)は史上最愚の人類として記憶される可能性は高い。そういう愚者の愛玩物として私の好きなマンガやアニメも後世の人間の研究に曝されるかと思うとなんだかちょっと寂しい。まあ千年もしたら「役人の腐敗がもとで国が滅んだ」というよくある一行で片付けられてしまうだろうけど。

もう三十年ほど前の三原順のマンガなのだが、私もよく憶えている。当時『LaLa』は毎月買っていたので誌面で読んだ。考えて見ると定期購読した雑誌なんて生涯を通して後にも先にもあの時期の『Lala』だけだ。

http://choipic.livedoor.biz/img/5469af30b09c.jpg

「電力会社は、原発で事故が来たとき、マスコミからの追及に、どう逃げ、どの辺で嘘をつくべきか、という計画も練っているって本当?」

この台詞は「電力会社の負担分を電気料金に上のせしてまた私たちに払わせるのでしょう?」という台詞と共に印象的で、当然電力会社は色々準備しているのだろうと思っていた。でもどうやら日本の電力会社の場合、長年マスコミに巨大な広告料を払い続けるというワンパターンの戦略しか持っていなかったらしいことが今回の対応で明らかになったと思える。

「絶対安全」なんてあり得ないのはもちろんだが、原子力発電を推進している側がまさか文字通りに「安全」を前提に振る舞っていて、原子力発電所事故への対応をまったく準備していなかったなんてさすがに想像を越えていた。口では安全と言っていても実際に運用している立場だったら当然、非常用のあれやこれやを密かに用意していると漠然と想像していた。これまでも汚染水の流出とか放射線漏れとか毎年のように起こっていたのに、まさかきちんとした防護服ひとつ持っていないなんてちょっと普通じゃない。

福島以降の数日程度で国際電力カルテル(とでも呼ぶしかない連合体)はおそらく今回の事故に関して東京電力の怠慢運用が原因であり原子力発電所というシステム自体の欠陥ではないのだという方向で話を進めることを決定したように見受けられる。政府の監督責任とかメーカーの製造責任とかは棚に上げられている感が強い。

それにしても東電の体質とか態度が誇張されて喧伝されているというのではなく、インターネットなどに出ている情報が事実に近いものだったとしたら目を覆うばかりの殿様商売ということになるだろう。

それにしても国土の大半を失う可能性すら内包する危機をいくら世界最大の電力会社だからとは云え一企業に預けっぱなしにしているというのはどういうことなのだろうか。こういう大戦争にも匹敵するような国家的な危機の対処をサラリーマン(それも揃って無能そうな)に任せる政府って何なのだろう。誰もが長年乱用してきた言葉なので使うことは憚られるとは云えやはり平和呆けという言葉を思い出す。なんにしろ、いつの間に誰も責任を取らない社会の住民になり果てていたのか。

三月半ばにはインターネットの掲示板で1950年代には大国が核実験を頻繁にやっていて放射性物質が大量にまき散らされたので多少また降ったところで今更たいした影響はないという発言をよく見かけるようになった。ネットには工作員が出没するという話は前から見聞きしていたが今回は実感することが多い。

福島県の小学校の校庭で子供達が体育の授業ができるように政府が許容量の基準値を20倍に薄めたときには、多くの人達と同じように呆れてものも言えないような状態になった。福島以前ですらあと二百年もしたら日本人はいなくなってしまうだろうと言われていたぐらい少子化が進んでいたのにこれ以上子供を減らしてどうする、ってなものである。

(つづく)

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