相子智恵
赤ン坊は闇の塊り砂糖水 男波弘志『詩客』6月17日号「
大道大乗歩行―芸能芸術起信考―【二】「闇と釦」」より。
私は仏教に詳しくない(ほかの宗教にも詳しくないけど)ので「大乗起信論」でも読んでみたら、また鑑賞が変わる句かもしれない。
でもまあ、そういうことに関係なくフラットに読んでみて、この句の「闇」はいいなあと思う。
同時作の〈六月の闇には臍のなかりけり〉〈船虫や膝の裏にも闇溜り〉も気になる句だが、なぜこれらの「闇」がいいと思うのかを自分なりに考えてみたら、それが有機的だからだ。
空っぽの闇ではなく、充填された闇。エネルギーが渦巻いている感じがして、真っ暗なのになぜか、めでたい。
それが〈赤ン坊〉や〈臍〉や〈膝の裏〉といった肉感的な語の働きによるのは、言うまでもない。さらに〈臍〉のない〈六月の闇〉のぷっくり膨らんだ質感や、〈闇溜り〉という過剰な闇の質量。
それにしても掲句の〈赤ン坊は闇の塊り〉は鷲掴みだ。エネルギーそのものではないか。〈砂糖水〉にもベタベタとしたエネルギーがあって、妙に心に残る。
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