相子智恵
ゆるゆる捨てる花氷だった水 神野紗希
『俳壇』(2011年8月号)「ユニコーン」より。
「花氷」はいまやほとんど見かけない季語だと思っていたのに、今年は出会う機会が多い。節電の涼しい演出のためだ。
この週末も、イベントでビルの屋上に花氷を置いた。正確には中に生花を埋めたものではなく、氷の花を彫刻したものだったけれど。
職人さんが作ってくれたそれは、自由に触れていいことになっていた。
触ってみると驚くほど冷たくて(氷なのだから当たり前なのだが、ガラスのような風情につい油断するのだ)触った人たちはみなすぐに手を引っ込めた。そして案外、屋外でも融けにくいものだなと感心した。
掲句、融けてしまった「花氷だった水」を捨てている。
人の目を楽しませることだけに使われた花氷。花氷という存在そのものが、美しい人工の氷ゆえ、華やぎの後、ふと人を寂しくさせる。
人工物のはずなのに、融けるのは自然のなりゆきという、いわば「半人工物」の哀しみだろうか。
氷から解放された生花もきっと、くたくたになっている。その喪失感はまこと「ゆるゆる捨てる」なのである。
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