読む欲望へ ~『俳コレ』という本
西原天気
『俳コレ』(週刊俳句編・2011年12月・邑書林)を取り上げる記事がウェブ上にチラホラ。例えば、
(…)年齢、地域、結社にはほとんどこだわりが見られず、若手発掘、という大義名分を否応なく背負っていた『新撰』シリーズの緊張感がないぶん、いい意味で、編集部のわがままな、私撰のアンソロジーとして受け取ることができる。かといって個人の選ではないから作品のバラエティ、振れ幅も楽しむこともできる。と好意的な捉え方。この部分を引用するのは販促の意図も少し、と、わざわざ魂胆を白状しておいて、同じ記事の次の部分。
■俳コレからスピカ:曾呂利亭雑記
改めて思うに、私が「週刊俳句」やspicaの人々に共感するのは、「詠む」だけでなく「読む」意識があるからだ。■同このあたりは、『俳コレ』まえがきで上田信治さんが提示している《読み手の欲求》と密に関連します。
作品を他撰とした理由は「「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます」(はじめに)と上田信治は書いている。年齢制限もなく、19歳から77歳までに渡っている。「この人の作品をまとまった形で読みたい」「俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ」「同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること」など編集部のスタンスは徹底して「読む側の立場」に立っている。文芸が《読み手の欲求》によって支えられる、あるいは成立するという事情はごく当たり前のことなんですが、俳句の場合、ちょっと違う。《書き手の欲求》が大きく幅をきかせる。つまり、「読みたい」という《読み手の欲求》と同等か、それ以上に、「読ませたい、読んでもらいたい」という《書き手の欲求》が肥大気味で、他の文芸分野にも増して前面に出やすい。
■『俳コレ』のことから川柳アンソロジーに話は及ぶ:週刊「川柳時評」
その背景には、書き手の数(作者人口)と読み手の数(読者人口)が拮抗するという俳句特有の現状があります。いや、作るだけ作って他人の句はろくに読まないという人も多いようですから、拮抗どころか、作者人口が読者人口を上回るかもしれません。これはふつうに考えて異常事態なのですが。
俳句世間に身を置いていると、《読む》よりも《詠む》《俳句を作る》が優先されているとさえ思えてきます。俳句総合誌のノウハウ記事の多さ、投稿雑誌の体裁と機能を累々と維持する結社誌、句集よりも入門書・歳時記・実用書のほうが売れる出版状況等々を見るにつけ。
これを産業用語に言い換えると、プロダクト・アウトの世界です。読ませたい人、作る人の事情から、「俳句」というものが成り立っている(それが正常か倒錯かは別にして)。
そこで《読み手の欲求》です。
「週刊俳句」の創刊(2007年4月)は、ある意味、「俳句を読みましょうよ、そのうえで俳句について語りましょうよ」という呼びかけでした。そのへんは前述の上田信治さんの「まえがき」にもあります。その「週刊俳句」が編集するアンソロジーが《読み手の欲求》をベースにするのは当然といえば当然です。プロダクト・アウトではなく、マーケット・イン、と言ってもいいかもしれない。
『俳コレ』の成否は、ここにかかっていると思います。つまり《読み手の欲求》を色濃く反映したものになっているかどうか。なっていれば成功です。欲求を叶えるかどうかも大事ですが、そこはそれ、読者の好みもありますから、まずは、反映されているかどうか、なのです。
編者が、読み手の側、作り手の側、どちらに立つか、という問題でもありましょう。もちろんどちらの側にも立つわけですが、作り手に寄りすぎた刊行物は、それが良いとか悪いとかではなく、業界誌(各種年鑑がその例)あるいは回覧板(内向的結社誌・同人誌がその例)として機能します。それらはいずれもプロダクト(作り手)アウトな媒体。
再び産業用語・経済用語で言えば、供給過多の俳句市場で、それでも需要を見出して、そこを出発点にしてアンソロジーを編むという作業は、その核に《読み手》としての欲求、《読む欲望》がなければなりません。角度を換えて言えば、『俳コレ』の編集の中心となった上田信治さんが《読み手》の表象(representation)となっているか、ということです。
話がちょっと入り組んでしまいましたが、要は、編者の上田信治/週刊俳句を、読者が身近に感じるような本になっているかどうか。
『俳コレ』が読者に親密な本、読み手の欲望にまみれた本であればいいなあ、というのが、週俳に関わる私の切なる願いなのであります。
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