相子智恵
日おもてをぬれ手であるく桃の花 飯野きよ子
句集『花幹』(2013.2 角川書店)より。
庭仕事か畑仕事を終えて手を洗ったのか、濡れた手のままで日向を歩いている。そこに桃の花が咲いている。一見実直で、健康的な句だ。が、私は掲句に陰影を感じ、そこに魅力を感じて何度も立ち止まった。
おそらく〈日おもて〉のからりと乾いた明るさと、濡れた手の冷たさ(桃の咲く頃だからまだ空気も冷たいだろう)のコントラストが地味に身体に入ってくるからだろう。一見平面的だが、じつは重層的だ。
本書にはそうした重層性を感じる句がけっこうある。たとえば
〈日脚伸ぶ幹の裏より蔓のぼり〉
この句〈日脚伸ぶ〉で幹に当たる日差しの明るさに春の訪れの喜びを見せているようで、じつは〈幹の裏より蔓のぼり〉という、日当たる幹の裏側にある影、そこから湧き上がってくる蔓の生命力を描いている。
〈花の闇幹がだんだん花となる〉
こちらは逆で、〈花の闇〉から〈幹がだんだん花となる〉という、暗さから明るさへの展開を見せる不気味な句だ。このように一句の中に陰影や重層があって、それが生命力につながっている。生命力とはただ向日的なものでもないし、明るさと暗さが混沌とした中にあるものなのだと思う。
以前、関悦史氏が本書から〈枯野原どの蓋とれば赤飯か〉を採り上げていたが、この句にも不思議な魅力があった。
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