関悦史
畑打のポケットにある聖書かな 金中かりん
畑を耕すときにまで聖書を身に着けているというのは、その人にとって聖書がほとんど護符のような、恃みとなる呪術的物件として内面化されているということだろう。
ところでこの畑打は他人なのか、語り手自身のことなのか。
他人のポケット内は見えないが、家人が持って畑に出ているということであれば知っていてもおかしくはない。
句集には他に農作業の句が幾つもあるので、おそらく語り手自身のことなのだろうが、そうした副次的情報は別としても、別な誰かへの共感ととると句が平板になる。自身のことととったほうが良い。
自身のことならばもう少し身に引きつけた、一目でそれとわかる描き方をしたほうがいいのかもしれないが、この古拙な客観視した描き方が、自分の想いに立てこもらず、それを畑の広がりと作業の敬虔さへと解放させている気配もあり、句自体がもはや自他の区別はどうでもよい単純明快なイコンと化しているように見えてくる。
句集『榠樝』(2013.4 ふらんす堂)所収。
●
0 件のコメント:
コメントを投稿