2013年9月18日水曜日

●水曜日の一句〔堀込学〕関悦史



関悦史








赦されて咳(しはぶき)をする機械かな  堀込 学

同じ「ゆるす」であっても「赦」の字は許可ではなく、罪をゆるすの意である。咳にまで許可が要ったということではない。いずれにしても、背後に法的もしくは権力的な支配関係があることになるが、「赦された」以上、支配-被支配がせめぎ合う局面の、緊張のピークはさしあたり過ぎたことになる。

この「咳」は、赦されたことによる気の緩みといった心理性よりは、「赦される」ような関係に参入し、得体の知れない人間じみた物件となった機械のなまなましい単独性を際立たせることに寄与している。この機械は「機械のような」正確さ、無駄のなさ、複製可能性のうちには収まりきっていない。

「機械」をメタファーに回収すべきではない。「機械のように使役される人間」という常識の枠内におさめてしまってはならない不穏さがこの句には充ちている。さらにいえばデュシャンの描く「花嫁」のような、人工的な構築物とも何らかの生命体ともつかない構造体が、そのままで発散する性的な眩惑性に似たものさえもが感じとれる。この句に描かれているのは、生体であり、同時に機械でもある、ハイデガーの用語でいえば「現存在」とも「道具的存在」ともつかない何かである。

権力関係の圧力を被ってたわめられた、得体の知れないもの。近現代の歴史の中を生きる人間の、誰であってもよい、しかし単独の者の、顔のない肖像。

案外この句は、寓意性を排したフランシス・ベーコンの強烈な画面に最も接近し得た句であるのかもしれない。この「咳をする機械」は顔のない肖像として、抜き差しならない不気味な親近性をもってわれわれに迫ってくる。不気味なのは、ここに描かれているのが、或る別種のスケールから捉え直されたわれわれ自身に他ならないからである。


句集『午後の円盤』(2013.7 鬣の会)所収。

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