関悦史
相打ちのつもりで摘むや花菫 志賀 康
小さい可憐な植物の茎が引きちぎられる感覚、その取り返しのつかなさと一体の、怪しい快感のようなものが立ちのぼる。
この句にあるのは、「花菫」と人を対等に見るアニミズムでは、必ずしもない。
「相打ち」の語にはまず「攻撃」の要素がある。こちらからも攻撃し、向こうからも攻め返され、そこで相打ちとなる。しかしそれも「つもり」であって、人の側は討ち果たされるわけではない。人が花菫を摘むのは一方的、非対称的な行為であり、花菫の側から対等にやり返す機会はない。
だが摘んだ瞬間、人の内部でも「相打ち」と呼ばれるに足る何かが起こっているというのが、この句の抉りだしたところで、力学的な手応えから、人の中にひそんでいた「花菫」性が不意にあらわになる。
生命や自然への畏怖には違いないが、巨大な山や森ではなく、引きちぎられた瞬間、人の中に侵入し、充満した「花菫」の身体性が大小の差を無化して、偈のように響き、香りを残す。
その快感に浸ることもなく、至って冷静に納得している辺りに、マッドサイエンティストの所業を垣間見るような風情があり、空恐ろしくも、微妙に可笑しい。
句集『幺』(2013.8 邑書林)所収。
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