関悦史
水晶の向かうは雪が降つてゐる 髙勢祥子
この句が入っている句集『昨日触れたる』はタイトルどおり身体感覚、ことに皮膚感覚に特化した句集で、《ねと言つてやはらかなこと雲に鳥》の口唇と「雲/鳥」とか、《蓮咲いて鰐半身の乾きをり》の鰐の乾いた半身とか、自分以外のものとも皮膚感覚という回路で通じ合う作りが多い。
掲出句も、降る雪をそのまま直接には見ていない。視線は水晶の内部へ凝集もせず、その向こうへ突き抜ける。自分と雪との間に、膜のように水晶が挟まっているのだ。つまりこの水晶は皮膚の代わりなのである。
皮膚が半透膜かワープ装置のようになって、それで他者や景色との関わりが保て、世界がリアライズされている。それは雪を見るだけのことですら例外ではないのだ。
他者 - 皮膚が先にあって、それへの反応として事後的に自分が在ることを確認している気配もないではない。しかしその、個のまとまりをふわりとはぐらかす回路自体は鉄の安定を誇っている。そこがもどかしさを感じさせもするのだが、雪の降る景色まで触知可能なものに変えてしまう強迫ぶりは、世界にひたすら撫でられるものとして主体を組織し続けてもいるようで、となるとむしろ問題なのは、にもかかわらず奇妙に官能から離れて自足している清潔さと安定性のほうなのだろうか。
句集『昨日触れたる』(2013.9 文學の森)所収。
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