2013年11月13日水曜日

●水曜日の一句〔中原道夫〕関悦史



関悦史








火事跡の湯気荘重に朝日かな  中原道夫

たまたま数日前に筆者の家のすぐ近くで本当に火事があり、貸家が一軒全焼してしまった。

夜間のことで消火活動中は下から火に照らされた煙が盛大に上がっていたが、翌朝この句のとおりになっていたかどうかは確認しなかった。

それはともかく、近所が火事で全焼するのはこの二十年くらいに限っても既に三件目である。他人事のようだが、かなり身近な惨事でもあるのだ。

炎上している最中には、人々が集まる。まずはどこが焼けているのかを確認しなければならない。知人の住まいか否か、怪我人はいないか、自宅への延焼がないか。

危険度の確認等が終わっても容易には帰れない。

突如顕在化した滅びの姿にあてられてしまうのだ。

たとえ小さな民家一軒であったとしても、焼けたとなると途端にこの世の真理を体現したかの如く、ギリシャ建築のように「荘重」なものになってしまうのである。

この句、何ごとかを成し終えたかのごとく、焼け跡の「湯気」となって朝日にさらされ、初めて「荘重」となり得た物件を諧謔的に描いている句には違いないのだが(この「かな」止めの馬鹿馬鹿しくも荘厳な決まりようはどうであろうか)、下五の朝日は「祭のあと」の明晰さをもってさわやかに湯気とぶつかり、小さな滅びをも呑み込んで進む日常の再開を告げ知らせつつ焼け跡を照らし尽くし、やや酷だ。

湯気のように重厚で、大理石のように軽薄な滅びの姿それ自体もたちまち消え去っていくのである。


句集『百卉』(2013.8 角川書店)所収。

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