関悦史
干大根みんなピアノになるために 渡辺誠一郎
一見、詩的直観のみで予想外なもの同士が結びつけられた、飛躍の自由感を楽しめばよい句とも見えるが、干されている大根は垂直にであれ水平にであれ、何十本もがずらりと方向を揃えて日にさらされているものであり、言われてみればピアノの弦のように見えなくもない。
ただし干大根とピアノの弦が似ているという比喩的な関係を物に帰着させて一句にしおおせてしまった場合、その表現は例えば「ピアノの弦の如きかな」といった、およそ冴えない代物となるはずで、この句においては両者の類似の発見は、いわば大前提の部分をなしているに過ぎない。
干大根たちは意志を持ち、ピアノになろうとしている。
その意志と期待の感覚、そしてその果てに奏でられるありえない楽音といったものたちが全て日を受ける干大根の輝かしさへと転化されているのである。ただし修辞による物の再現が眼目になっているわけではない。これはアニミズムというよりは、干大根の形状、様態から導き出される感覚に内在的に同調することで成り立っている句であって、それを詠む=読むときには読者の側も人間ではなくなっている。その愉しさがこの句の核心にある。
われわれは俳句を読むとき、ピアノになる潜在性を秘めた干大根といった、わけのわからないものでも在り得るのだ。
句集『数えてむらさきに』(2004.11 銀蛾舎)所収。
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