2014年1月15日水曜日

●水曜日の一句〔榮猿丸〕関悦史



関悦史








春の夜の時刻は素数余震に覚め  榮 猿丸

句集中「2011年・2012年」の部に入っている句で、「余震」はおそらく東日本大震災以後のそれを指す。

制作年次を知らずとも、通常、地震で目が覚めたならば「地震」と書くはずであり、「余震」という語はその前に大きな地震が既にあったことを示している。

句の前半の乖離ぶりは味わうには、この危機感に満ちていて然るべき状況下での地震発生による目覚めという点を汲まなければならない。

目が覚めて時計に目をやると、その示している時刻は「素数」であった。

この記述から、この時計はアナログではなく、デジタル表示であり、しかも「夜」との対応から暗い中でも点灯して読みとれるタイプのそれではないかとイメージできる。携帯電話の時刻表示かもしれない。いずれにせよ、数字と数字の間の曖昧な領域を針がなめらかに移動し続けるアナログ時計では、見た瞬間に「時刻は素数」との認識はもたらされないのだ。

しかし無論、時計の文字盤に「素数」という文字が表示されていたわけではない。文字盤にはあたりまえの数字による時刻のみが表示されていたはずだ。ならばその数字をじかに句中に書き入れてもいいはずなのだが、この句の中心は、覚めた時刻がいつであったかではなく、それがたまたま素数であり、そこにまず気がついてしまったという、緊張と不安が続く日々のなかで、必要とされない、どうでもよい事柄への注意力が不意に作動してしまったという点にこそある。寝ぼけているとも取れるし、緊張疲れで現実からやや乖離しているとも取れる。

ところで、時計では60以上の数字が表示されることは通常ないから、ここで表示されていた「素数」は次のいずれかであることになる。

 2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59

このうちヒトケタの「2」「3」「5」や、逆にあまり大きな数などは、一般に「素数」との発想が咄嗟にわきにくいものだろうから、このとき表示されていた数字はおそらくこの数列の真ん中あたりのどれかなのだろうと推察できる。できたところでそれ以上はどうにもならない。どの数字であったかには意味はないからである。

注意力のちぐはぐな作動ぶりを記したこの句は、「おもしろさ」も「かなしさ」も持ちつつ、しかし読者の感情移入を誘ったり、何らかのメッセージを伝えたりする暑苦しい同調圧力からは徹底して身を遠ざけており、一句は、夜のデジタル時計に、目覚め際に表示されていた時刻がたまたま「素数」であったという、主情性による濁りも、象徴的・観念的な深みともおよそ無縁な、輝かしく明晰でありながらその細部は曖昧なイメージの記憶、時計の表面へと集約していく。つまりここには、薄く無機的な表面に囲まれたものとして、現在の暮らしをリアライズするという明確な意志が働いており、そのひややかな感触の底に、ひそかな官能と、儚いようで実在感のある肉体が横たわっているのである。どうでもよいような些事に対する精確な慮りのユーモラスさとともに。

1と自分自身でしか割り切れない「素数」は、その肉体の固有性に、遠く‐近くデジタル表示の記号の領域から呼応しているとも取ることができる。


句集『点滅』(2013.12 ふらんす堂)所収。

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