2014年4月9日水曜日
●水曜日の一句〔川名つぎお〕関悦史
関悦史
会議中ふと独活よぎる塵取りも 川名つぎお
会議中に注意散漫となって周囲のどうでもよいものが目に入ることはいくらでもあるのだろうし、ことによったら窓外に独活が見える場所で会議を開くことも全くないとは言いきれない。だが問題なのは「よぎる」である。
この独活は外に生えているわけではなく、その辺を動き回っているらしい。
さらにそこへ「塵取り」が追い打ちをかける。マトモな状況とは思えない。
だがそれを異常と騒ぎ立てたり、何ごとだろうかと不安に駆られたりしている雰囲気は薄い。そういうものたちが勝手に動くこともあろう。
それよりも会議は続けなければならないのであって、周囲の世界がどうなっていようが、さしあたり問題ではない。いや、問題なのかもしれないが、われわれがそれをどうできるというのか。やがては「独活」や「塵取り」どころでは済まないとんでもないものが動きだすのかもしれないが、そうなったらなったとき考えればよい。そもそも妙な物が動いていたとしても、会議中に「いま独活が」とか、「塵取りが」などと口走るわけにもいかないのだ。
と、こう取ると、大問題をよそに自分の仕事にのみ励み、結果として社会の崩壊を容認してしまう大衆への皮肉という読み筋につなげる道もかすかに出てくるのだが、こういう理に落ちすぎる筋道はかすかなままにしておいた方がよい。
それよりも、意識のわずかな隙につけいって、動くはずのないものが動いているという、職業生活と地続きのところにあらわれる超現実の、奇妙な浮遊感を味わう方が重要である。
何ゆえ数ある小さい物たちの中から「独活」「塵取り」が出てきたのかは判然としないが、この並びはじつに絶妙であって、葉先がやわらかい曲線を描いてもしゃもしゃと広がりゆく独活がその辺をうろうろしていたら、その姿かたちからして、このくらい虚仮にされた感のあるものもないであろうし、「独活」という字面も、何やらまともな伴侶と結びつくこともなく、「独活の大木」という成語への連想を背後にゆらめかせた、生産性に貢献しない独身者的な奇異さを連想させる。脈絡というものをわきまえず、その辺をうろうろしていそうな植物としてはこれに勝るものはない。
またそれに続く「塵取り」も、どこに出没して使われていても不思議ではない、情けない有用性をまといつつ、しかし「独活」との必然的な結びつきは特になく、間抜けさが際立つ。意識の空白に湧き出してくるものとして説得力充分である(何を説得しているのか知らないが)。
べつに超現実の景ではなく、単に廊下を「独活」や「塵取り」を持った人が通ったにすぎないという、素朴リアリズム的な解釈の余地も一応残っていて、それがかえって、「日常」や「現実」と呼ばれるものの危うさ、あやふやさをも思わせる。
形としては、有季定型句でもある。
句集『豈』(2014.3 現代俳句協会)所収。
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