2014年7月2日水曜日
●水曜日の一句〔山中葛子〕関悦史
関悦史
白鷺のしずかなゲーム信長忌 山中葛子
何とも不可思議な落ち着きのある句で、意味を探る前にしばらくこの潤いに富んだ虚空感を味わっていたい気がする。
「ゲーム」がいかなるものなのかを考える手がかりはこの句のなかには「しずかな」以外何もないのだが、同じ句集に収録された鳥の句には次のようなものがある。
水の春鷗しばらく液化して
百千鳥消える競争しておりぬ
海鳥の全部が消えて白鳥座
これらと並ぶとこの「白鷺」の「ゲーム」も消滅することにかかわっていそうではある。
ただ四句いずれも、消え去って終わりではなく、消え去ることと別の何か(液体や空や星座)に移り変わることとがセットになっていて、それはあまり寂しいものではない。「白鷺」の「ゲーム」も、その満ち足りた空白感とでもいうべきものを通じて「信長忌」という別な時空を呼び込むように機能している。
白鷺と信長について何かいわれがあるのかと検索してみると、信長が今川義元と桶狭間で戦う前に熱田神宮で願文を読みあげたところ、一羽の白鷺が飛び立ったので、これを吉兆としたということがあったらしい。戦国史ファンにとっては常識に属することなのかもしれない。白鷺本人が知ってか知らずか、白鷺は信長にメッセージを届ける使者の役割を担っていたわけである。
さて、句の時代は現代、あるいは少なくとも信長が死んだ後である。
白鷺はゲームの末に消え去り、冥府の信長にふたたび何かの吉兆を伝えなければならないのか。だが死後の吉兆とは一体何なのか。それともかつて奇妙なゆかりのあった信長を偲んででもいるかのように、白鷺が意味ありげなしぐさに耽っているというだけのことなのか。ヤマトタケルと白鳥以来、鳥と死者の魂は縁が深いが、そうした連想をはらみつつも、この白鷺を直線的に信長当人の亡魂に擬するのは少々難しい。吉兆を伝えるには別な者でなければならないということもあるが、「しずかなゲーム」と信長のイメージとの間に奇妙な疎隔があるからである。
この句には、阿部完市の句に通じるような、言葉を通してのみあらわれる懐かしい空白の感触がある。なのでこの「ゲーム」は呪術的な粘りや鈍重さを醸し出すことは全くない。非意味の空白のなかで、死んだ信長(あるいは信長の死という出来事)と、かつて吉兆という記号としてふるまったことのある白鷺との間で、何かうかがい知れないしずかな交流の回路が開いているようでもある。ここは一体どこなのか。読者はその奇妙な現場に立ち会わされ、存在と消滅の間で迷子になったような快感に打たれるのである。
句集『かもめ』(2014.5 角川学芸出版)所収。
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