2014年8月6日水曜日

●水曜日の一句〔吉村毬子〕関悦史



関悦史








水鳥の和音に還る手毬唄   吉村毬子

複数の読み方ができ、それらが重なり合っていることが直観される句。

ひとつは「水鳥の(立てる)和音」、または「水鳥の(ものである)和音」へと手毬唄が還ってゆき、その歌詞・旋律が分解されていくという読み方。

もうひとつは「の」を主格と取って「水鳥が和音に還る(ことになる)手毬唄」という読み方である。この場合は実体があったはずの水鳥が手毬唄によって音響へと変貌し、消失することになる。

いずれにしても「手毬唄」か「水鳥」のどちらかは消失してしまうことになるが、その消失の相が「和音」という非実体的ながらも複数のものの調和を示す相であるところに、ものがなしくも目出度い完結感が漂っている。「手毬唄」が幼時の記憶に結びつきやすいことや、鳥が魂と同類視されやすいことを思えば、ひとつの生涯の終わりを内側から見守っているかのようだ。

実際に歌われる際には大概単旋律であるはずの手毬唄が「和音」へとずれるところに、湿っぽい日本情緒を明るく洋風化したような明るさがあらわれる。そして「還る」となれば、和音のほうが原点であり、消失する水鳥または手毬唄はその展開、具現化されたものに過ぎない。

そこまで読者に直観させてしまうからこそ、この和音は自然、生き物、幼児の記憶を全て美しく半抽象化しながら豊かに鳴り響く。水/鳥/球体/歌のイメージを透かし合わせた中へ、和洋折衷の近代日本の人生が掬い上げられ、やわらかく解放されるのである。


句集『手毬唄』(2014.7 文學の森)所収。

0 件のコメント:

コメントを投稿