関悦史
仰ぎ見る僧の背丈や水の秋 利普苑るな
出家者の、いわばこの世に無用な身が見上げるほど大柄というのも、力がありあまっているようで、何か不穏な気がするが、「水の秋」がまたやや不思議な付き方で、見ている側が水に変じ、地よりも低いところから僧を仰ぎ見ているような錯覚が生まれる。
屹立する僧のほかは皆、水とも人とも知れない秋の自然と化しており、それとの照応で、僧自体も内面性の奇妙に稀薄な、非人格的な得体の知れない大きなものに変じているようだ。
だがここまで句のなかに踏み入ると、そこで不意に、僧を見上げる小柄な人という当たり前の存在が復活し、僧もそれに応じて人がましい表情を取り戻すこととなる。「水の秋」も、ごく穏当に、周囲に広がる背景の位置にまで分離する。
この句は「背丈」に還元された僧を境界線として、図と地が反転する騙し絵のようだ。「水の秋」が視点人物の内面にまで染み入って一体化し、また分離する、その波打ち際にこの句が成り立っているのである。
句集『舵』(2014.9 邑書林)所収。
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