関悦史
大寺をとり巻く秋の草となる 大峯あきら
何が秋の草となったのか、主語が省略され、空白になっている。そこに正体の特定しがたい生気が入り込む。
単に少ししか生えていなかった草が、いつの間にか大寺をとり巻くほどに蔓延ったというのが現物に引きつけての常識的な解釈だろうが、「大寺をとり巻く秋の草」となったのは「私」かもしれないし、他の何かとも考えられる。「大寺」がはらむ連想範囲からすれば、「仏」や「仏性」や「死者」や「縁起」や「空」その他かもしれない。句の言葉はそのように組織されている。
重要なのはこの「秋の草」がそれらのいずれでもありうる潜勢力を持ちつつ、しかし何とも特定し得ないことであって、その何ともしれない空白が「大寺」の周囲を占めるほどの規模の生命体の群れとなり、「とり巻く」という円環性のしなやかな運動を完結させたことからくる充足感は、アルカイックスマイルを浮かべた仏像にでも対面しているかのような軽い不気味さを秘めており、それでいながら句は清澄に静まりかえっている。理が徹っていながら、その理が単純明快さのなかに揮発し、豊かに澄んだ妖気に転じおおせている句で、こういう作はこの作者の独擅場であろう。
句集『短夜』(2014.9 角川学芸出版)所収。
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