相子智恵
吊革のしづかな拳梅雨に入る 村上鞆彦
句集『遅日の岸』(2015.4 ふらんす堂)より
自分の周囲に誰もいない静けさではなく、混雑しているけれども静かであるという状態には、安らぐような、ざわざわするような、不思議な感情を引き出されるところがある。
たとえば通勤電車や、図書館、大病院の待合いの静けさ。静かではあるけれど、人の「気配」に満ちていて、ふと、それぞれの人には視線があって、視線の先には物があること。あるいはそれぞれの人には手があって、その手の先には吊革や本や、整理番号札が握られていることを思うとき、そしてそのひとつひとつの目や手の、静かで滑らかな動きを思うとき、ざわざわするような、安らかなような気持ちになるのだ。
そうした「気配に満ちた静けさ」が掲句にはあって、それが梅雨入りの、やや鬱陶しい気分と響きあっている。鬱陶しさがありながらも、しかしこの句には不思議と透明感があるのだ。雨滴の透明な光のように。
『遅日の岸』を読んでいると、掲句のように内側には芯のつまった複雑な重さがあるのに、それでいて読後は透明感があるという句にたくさん出あう。その透明感とは明るくピチピチと瑞々しいものではなく、少しの寂しさのある、心が静まるような透明感なのである。十代から三十代前半までの句で編まれた第一句集だが、青春性というべきものが確かにあって、けれども静かで透明で、何度読み返してみても飽きないのだ。
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