関悦史
くちびるを読みあふ遊び小鳥来る 中町とおと
この句、職業的な必要から必死に読唇術を試みているというわけではない。「遊び」である。
女子同士の遊びがイメージされるが、そうでなかったとしても、向きあって、互いの唇の動きと肉感を見つめ合うさまは、何ともわかりやすいまでにエロティックだ。
この遊びの肝は、もちろん声を出してはならないところである。音声無しで互いに何を言っているのかを当てなければならない。
その抑圧された音声を代行するかのように小鳥が来る。
しかしその小鳥の鳴き声もヒトの言語とは違い、明確な指示対象や意味内容といったものはおそらく持っていない。
持っていないからこそ、われわれはそこに害意のない、純然たる自然の語らいを見出して心慰められもするのである。つまりここでの小鳥は、「くちびるを読みあふ遊び」のなかで互いに隠し合っている意味を伝えるために来ているわけではなく、この遊びに耽る両者が、実際の発声を止めることによって、却って、害意なき純然たる自然の語らいに近い営みに接近していることを物語っているのだ。
無論、この遊びは何を言っているのかの当て合いに主眼があり、互いの発語の内容はすぐにわかってしまうことになる。つまり動物的な無邪気さに接近しているとはいっても、遊んでいる両者は動物になりきるわけではない。じゃれあうようにして動物とヒトとを自在に行き来しているのだ。この句のエロティックさはそこから来る。
ちなみに作者は女性である。
句集『さみしき獣』(2015.4 マルコボ.コム)所収。
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