関悦史
春の夜の大河ドラマはすぐ叫ぶ 大牧広
筆者個人はこの数年テレビ無しの生活をしているので、最近の作品は見ていないのだが、大河ドラマはそんなシーンが多かった。
合戦の際の号令といった、大声を上げてしかるべきシーンでの大声ではない。武将が食事中に注進が入るとやおら立ち上がって飯粒噴き出しながら叫んだり、合議や談判がこじれたときに叫んだりする、今の日常生活であればいきなりここまで振り切れることはないであろう場面での叫びである。
あの叫びは、顔のドアップの多用と並び、描写というよりは説明に近いものだろう。
説明が多くなればなるほど、作品としては弛緩し、安手になる。テレビなので仕方がない。自室で他のこともしながらだらだら見られるであろうものを、黒澤映画のような緊密な作り方をしたら、視聴者はちょっと気を抜いたら何の話かわからなくなる。
大河ドラマは、日本国民が共有すべき歴史的物語を一年間の長きにわたって映像化しているという趣きのものだが、それが実際にはどうしても安手に仕上がる。
「春の夜」という緩いつけ方の季語が、その安手さをややうんざりしながらも受け入れる。結局、本放送につきあって見てしまっているのだ。
あるあるという共感で成り立つ句だが、実際の戦火や修羅場が遠いままで済む(または済んだ)時代としての現代をこの「春」は肯っている。
句集『正眼』(2014.4 東京四季出版/2015.7 俳句四季文庫)所収。
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