2015年12月2日水曜日

●水曜日の一句〔藺草慶子〕関悦史


関悦史









自らの蘂に汚れて百合ひらく  藺草慶子


写生の極みに「百合」自体をも通りぬけ、言葉が観念的なエロスにまで達した句で、「自らの蕊」というふうに花と花自身のかかわりから一物を立ち上げたという点では、水原秋櫻子の《冬菊のまとふはおのがひかりのみ》に似る。ただし秋櫻子の「冬菊」があくまで清浄に光に同化していくのに比べると、だいぶ肉体的な官能の気配が濃い。

百合の花粉は豊かでこぼれやすく、一度付くと落ちにくい。句はそうした百合の実態を踏まえ、に見入っているが、それを「花粉に汚れ」と言ってしまえば報告に終わる。「蕊」と言い、雄蕊と花びらの接触と把握したことで次元が変わったのだ。

花が「汚れる/汚される」となると冒涜の気配が立つ。それはただちに陳腐な性的隠喩へと落ちかねない。しかしここでは汚すのも汚されるのも「百合」自身、自分のなかにある矛盾や軋轢がそのまま美的充実の土台をなしているのである。

自慰的とも両性具有的とも、加虐的とも被虐的とも見えるが、そうした過剰さはすべてあくまでも端正な言葉のなかにたたみ込まれており、そうして高められた内圧が、百合という植物を、単なる観賞用の花ではなく、別の生命体という相にまで異化し、引き上げる。

この句は「自分のなかにある矛盾や軋轢がそのまま美的充実」になるという事態の寓意にとどまっているわけではないし、また百合への共感にとどまるわけでもない。それらを通過し、その辺の植物はそのままで「存在する」ということの驚異性を体現しており、俳句の言葉はそれを掘り起こすことができるのだということを示しているのである。

句集『櫻翳』(2015.10 ふらんす堂)所収。

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