関悦史
どの木にも幹の静けさ今朝の秋 藤井冨美子
穏やかさと落ち着きのなかから木々の量感が迫ってくる。
その量感をかもしだしているのは、分割の細かさだ。幹はいうまでもなく木の一部である。通常ならば同じ一つのものとしか認識されない。作者の目はそれを丁寧に分割し「静かさ」のよってきたるところをほりさげていく。
「どの木にも」は全景であり「静けさありぬ」などと続けば焦点のぼけた一般論に終わる。「どの木にも」のなかから一本一本の「木」が割り出され、ついでその木々から中心となる「幹」が割り出される。「静けさ」はその幹の質量と、幹が育つまでの時間を背負うことになる。この析出する過程、全景と細部とを行き来する視線の認識の過程が落ち着きと量感を引き出すのである。
自然との対話などといえば空疎なものいいとなるが、ここでは作者と木々との間の相互浸透が俳句化されているといえるだろう。だからこの静かな「幹」は作者に似かよって見える。
「今朝の秋」は爽やかな季節の変わり目だけではなく、通じあう木の幹と作者との境目にも通じている。
『藤井冨美子全句集』(2014.12 文學の森)所収。
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