2016年5月18日水曜日
●水曜日の一句〔髙柳克弘〕関悦史
関悦史
月とペンそして一羽の鸚鵡あれば 髙柳克弘
書き手としての己を恃んだロマン主義的な句ではある。「ペン」の一語がそう読ませ、「月」と「一羽の鸚鵡」が、耽美性、ナルシスティックな孤心への自足、華やかでエキゾティシズムといったものを思わせる。自分の外部にこれだけのものがあれば、「ペン」は突き動かされ、創造していけるという、自信と未知への憧れが、三つの物件のみから立ち現れるのだ。
二物衝撃ならぬ三物の並列が、その背後の心象をうかがわせるという構成が巧みというか、俳句としてはやや珍しいかもしれない。心象が前面に出過ぎると嫌味になりそうだが、表面に並べられた物件たちが形作る印象は、これから書かれる作品が自己表現であると同時に、物の官能性によりそった博物誌的な明快さを持ったものになるのではないかといった期待感をも抱かせるのである。
同じ作者の旧作に《洋梨とタイプライター日が昇る》という、やはり三物を並べ、しかもそのうちの一つは筆記用具であるという句があるが、こちらでも残りの二つは「日が昇る」という天文的事象と「洋梨」というエキゾティックな物件である。
その意味では、配合の仕方はあまり変わっていないのだが、本当に物が並んでいるだけのような旧作に比べると、この「月とペン」では書き手の思念がより前掲化する。その思念自体は、じかに書かれたらさして興趣をそそるといったものにはならないはずなのだが、思念の部分を担っている「ペン」は、「月」や「鸚鵡」と並ぶ(というよりも「そして」が置かれることにより、バランスとしては「一羽の鸚鵡」がむしろ中心的なウェイトを占めている)ことで、単なる物件としての輪郭を獲得してもいる。とはいうものの、全体としては「あれば」の甘味に一句が統御されていることは間違いなく、結果として、これら物件と思念の組み合わせ(及び強弱のバランス)から成る句は、両者が触れ合う内外のはざまに生成し、浮遊する一枚の皮膚のようなものと化す。ナルシスティックな句であるにもかかわらず、思念を直叙する句の暑苦しさから離れられているのは、一句がこうしてしなやかで薄い官能性そのものに変じているからなのだ。
句集『寒林』(2016.5 ふらんす堂)所収。
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