相子智恵
日盛や動物園は死を見せず 髙柳克弘
句集『寒林』(2016.05 ふらんす堂)より
先日、象のはな子が死んで横たわったニュース映像を見て「これは特別だ」と思ったのは、私の心の中にこの句がずっとあったからだ。
〈山青し骸見せざる獣にも 飯田龍太〉のように、死ぬ姿を見せないという動物の本能を描くのとは対照的に、生きている動物を見せる動物園を管理する人間が、死後も動物を管理し、観客の目に動物の死体をさらすことはないという、どこまでも人工的でクリーン(?)な状態を描いた句。それも「日盛」という、神経をとがらせるような暑苦しさ、隅々まで夏の光に照らされた明るさの中で。
美しく秩序をもって作られた世界の裏側にある「見せないこと」に対して、作者はとても敏感である。同句集の代表句のひとつである〈嗚咽なし悲鳴なし世界地図麗らか〉の世界地図の美しさも同じだろう。
一方で〈見てゐたり黴を殺してゐる泡を〉という句があって、ここにはカビ取り剤を黴に噴射し、その泡が黴を静かに殺していく間を見ているのだが、泡を噴射したのは自分だろう。それを傍観者のように眺める視点は、動物園の句と詩の根は同じである。
CMで流れる“殺す商品”といえば、殺虫剤とカビ取り剤で、それが生き物を殺すという感覚もなく、クリーンな生活の共として私たちは見ているし、使っている。動物園では生きている動物は見るけれど、死んだ動物は見ない。そうして日常はつつがなく流れているのだということを、これらの句によって突き付けられるのである。
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