2016年6月15日水曜日

●水曜日の一句〔森田廣〕関悦史


関悦史









上がり框でとんぼを切りし春の沖  森田 廣


「とんぼを切る」は飛び跳ねて空中で一回転する所作。歌舞伎などで、投げ技をくらったことを表すのによく用いられる。日常いきなりやる動作ではない。そのことがこの「上がり框」を何やら特殊な境界のように見せる。まして下五は「春の沖」という飛びようだ。日本家屋の入口から見えていてもおかしくはないが、生活空間から離れた別の領分である。

家の入口のうす暗さと沖の明るさの対比があざやかで、他界的であるはずの「春の沖」の方が明るい。いや、「春の沖」が元から他界性などを担っているわけではないし、「上がり框」が予めこの世を表しているわけでもない。物が物であるままそうした象徴性を帯びてしまうのは、まじないじみた「とんぼを切る」動作で区切られてしまったことによる。

子供が道を歩きつつ、ドブ板ならドブ板だけを踏み、踏み外したら死ぬなどと、一人決めにした想念に耽る。こういうのも呪術的思考の萌芽であろう。誰にでもありそうな、その手の、強迫神経症一歩手前のような狂おしさを帯びつつ象徴性を日常へ巻き込んでゆく経験への慕わしさ。そうしたものを説得力と共感の土台に持ち、一句は、「とんぼを切る」へと飛躍する。描かれた動作が飛び跳ねているだけではなく、発想としても飛び跳ねる。

上がり框でとんぼを切らねばならないと認識し、実行したのは何ものであろうか。狐じみた物の怪や神異の類のようでもある。普通の人間がとんぼを切り、框を上がった途端に憑物が落ちて、以後は自分がとんぼを切ったことすら覚えていないといった事態も考えられる。記憶も自覚も残っていたとしても、当人にもおそらく説明は不可能であろう。単にそうしたというだけのことだ。日本家屋が身心に引き起こす幻想を描いた作として、一家が皆、何の説明もなく箪笥の上に上がってしまう半村良の短篇小説「箪笥」に通じる味がある気もする。それにしてもこの「春の沖」の何とあっけらかんと謎めいて魅惑的なことか。

句集『樹』(2016.5 霧工房)所収。

0 件のコメント:

コメントを投稿