関悦史
野は曲り街は砕けてつばめ来る 山田健太
高速で飛ぶツバメの視界を、瞬時に、想像的に追体験した句か。
飛ぶ鳥の視野を詠んだ句といえば上田五千石の《渡り鳥みるみるわれの小さくなり》があるが、「われ」の想いを担いつつ遠くへ飛び去る五千石句のロマン性はこの句にはなく、こちらでは未来派絵画じみたスピード感と知覚の変化により、別の景色となった野や街が捉えられている。
もちろん人から見れば何の変哲もない風景である。それと飛ぶツバメの知覚との重なり合いが詠まれているわけで、ユクスキュルの環境世界論をあらわした句ともいえる。
この「つばめ」は擬人化されていない。ただ異なる知覚により、異なる分節化をされた景色が類推されているだけであり、人には見えても見えていない世界が同時に幾つでもあるという事態が、飛んでくるツバメを介して不意に引き出されているのである。そこにこの句の爽快感がある。
別の読解の可能性もあるにはある。
この句が収録された句集は編年体で、この句が置かれた「平成二十七年」の章の四年前、「平成二十三年」には東日本大震災被災の模様を詠んだ連作も収められているからだ(作者は水戸で被災し、避難所暮らしも強いられたらしい)。
それを踏まえると「街は砕けて」は震災後の街のこととも見えかねないのだが、句の配列上、震災という文脈からはかなり離されている上、「野は曲り」は震災による地形の崩れの表現とは読めない。第一これを震災の街と取ると、句の認識がひどく平板な、魅力のないものになってしまう。やはりツバメの視野と取った方がよさそうだ。
句集『二百三十四句』(2016.6 私家版)所収。
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