2016年6月8日水曜日

●水曜日の一句〔加藤静夫〕関悦史


関悦史









水着なんだか下着なんだか平和なんだか  加藤静夫


口語調の上に七七七の字余りだが、三回繰り返される「~なんだか」のリフレインによって統一感がもたらされている(反復は統一感をもたらす。俳句でしばしば嫌われる中八でも、四音の語を二度繰り返す形であれば、間延びしにくいという説を聞いたこともある)。

水着にしては露出が多く、下着にしては鮮やかといった、どっちつかずの、おそらくは水着と思われる物件を前にしての《水着なんだか下着なんだか》には、性的な関心を引かれつつ、そのデザインには呆れてみせて距離を置く安全志向ともいうべき心理がうかがわれるが、一句はさらに《平和なんだか》と続く。

日本の場合は特に、戦時であれば《水着なんだか下着なんだか》わからないような物件が衆目にさらされる事態はなさそうだから、さしあたり、この妙に扇情的な物件が人目に触れていること自体、平和をあらわしているとはいえる。

これは重いことをあえて軽く扱うことでかえって重さを際立たせるという手法というわけでもなさそうで、今のところたしかにはっきり戦争状態には至っていないが、本当に平和なのかねと、茶化しつつ高みの見物を決め込んでいるかのような一見余裕のある言葉が、「~なんだか~なんだか~なんだか」というリズムによって、呆れつつもかえってそれ自体踊りだしてしまい、地に足のついていない夢遊性を体現してしまっている点が重要なのだろう。

浮遊性のなかで「水着」「下着」と同一地平に置かれてしまった「平和」の扱いの諧謔的な軽さ。それは語り手のうちにいつのまにか自然に入り込んでしまっているものである。頭で大事なことと思っても、実感はないという乖離が、このカテゴリーの違いを無視して「水着」「下着」と並んでしまう「平和」にあらわれていて、語り手はそれを自覚しているのである。

また考えようによっては「平和」とは《水着なんだか下着なんだか》わからない物件を何の不安もなく愛でたり、茶化したりしていられる状態であるともいえる。この物件は、今のところ声高に指弾されたり、空襲によって炎上したりすることもなく無事に人目にふれている。そうした夢遊性と不安感をはらんだ、危機との距離があるのか、もうさほどないのかもはっきりしないなかでの安定、それを体現しているのが「~なんだか~なんだか~なんだか」の反復なのである。


句集『中略』(2016.5 ふらんす堂)所収。

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