【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その4・序文
西原天気
序文のある句集とない句集、どちらもあります。著者が書いた序文はほとんど見たことがなく、だいたいはエラい人(所属結社の主宰など)が書いています。
で、この序文。
読みません。
映画館に座って、目当ての映画が始まる直前に、その映画のハイライト映像やら解説を観たいと思いますか?
句集をひらいた最初は、やはりその人の句を読みたい。
だから、序文があれば、それを飛ばして、句を読みます。句集を読み終えてから、序文に目を通すことは、たまにありますが。
事情はわかります。想像できます。序文がなぜあるのかというと、おそらく、結婚式の仲人の挨拶みたいなもので、「このたび句集を出すことになった某は、これこれこうで、こういう句を書いているので、どうかよろしく」と紹介するもの。いわば、お披露目の前口上。だからでしょう、第二句集以降は、このたぐいの序文がつかないことが多いようです。
とにかく句集特有の儀礼でありまして、かなり奇妙なものです(歌集とか川柳はどうなのでしょう。手元にサンプル数が足りない)。
もうひとつ、奇異なことに、最初のページに「序文」とだけあって、書き手の名前がないケースがある。ページをめくっていくと、序文の最後に書き手の名前が現れる。これはかなり奇妙です。誰が書いたものなのかわからないまま(記載がなければ著者の文章というのが相場ですが、どうもそうじゃない)、数ページめくって、やっと書き手が判明するのは、不自然。
というわけで、序文は要りません。
もちろん、私は要らない、と言っているだけのこと。付けるか付けないかは、いろいろな事情で決まるはず。ただ、希望を申せば、その手の一文が要るという場合、うしろに持っていただけると(跋文)、たいへんありがたいです。
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