2016年9月21日水曜日

●水曜日の一句〔高橋睦郎〕関悦史


関悦史









千手千體御手百萬や秋のかぜ  高橋睦郎


「三十三間堂」の前書があり、千手観音像の嘱目である。

立ち並んだ千手観音像に、実際には厳密に千本の腕はついていまいが、もともと千手とは衆生ひとりも残さず救済する観音の慈悲と力を形象化した、いわば、もののたとえである。異形の姿とはいえ理が通った、理詰めによる異形なのだ。それを思えば、彫刻された腕が実際に何本あるにせよ、そのほかに、不可視で非実体の腕が無数に放射されているともとれる。そもそも千という数字がもののたとえに過ぎない。

それをさらに理詰めで計算すると、千手観音×千体=百万の手ということになる。仏典には白髪三千丈式の誇張法が少なくないので、この生真面目な計算の結果として出てきた過剰で奇想的な百万の手のイメージも、そうした修辞法を踏まえているともいえる。

しかしその慈悲と力の現れたるべき百万の御手は、端然と、凝然と秋のかぜを受けるばかりである。手に秋風を受けることで、物件としての千手観音像千体の肌ざわりも立ちあがる。

そうして立ちあがった質感と量感が、衆生救済に届いているかどうかは判然としない。というよりも、おそらく届いてはいないし、この句の語り手も、救済願望やありがたさという回路では、この千手観音像千体とは感応していない。そうした回路から切り離された、無意味な、なまなましい過剰としてこの百万の御手はある。仏を形象化したとき特有の、あの一種のグロテスクさを引き出すのは、仏への帰依でもなければ、無信仰や虚無、悪意、絶望の誇示でもなく、冷やかな秋のかぜとしてその肌に触れる視線なのである。


句集『十年』(2016.8 角川書店)所収。

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