2016年10月26日水曜日

●水曜日の一句〔森澤程〕関悦史


関悦史









一点のゴリラがぬくし観覧車  森澤 程


観覧車の上からの眺めにゴリラがいる。むろん数は多くはなく、動物園に飼われているものらしい一匹が目に入るのみである。観覧車から外を見下ろすならば視線をはるか遠くに向けてもいいはずだし、ゆるやかに移動するにつれて変わっていく高さのなかから、さまざまなものに次々に視線を向けてもかまわない。

しかしある高さまで来たときに、たまたま目に入ったゴリラは、その黒い裸体を上空から見られていることには、おそらく気づくこともなく、語り手の目を絡め取ってしまい離さない。「一点の」から、かなりの距離をもって眺められていることがわかるのだが、点にまで縮減されたことで、そのなまなましさはかえって強められ、「ぬくし」との体感をもたらし複合することになる。

ゆるやかに大きく回るしかなく、また乗ってしまった客の立場からはもはや統御もきかない観覧車と「一点」のゴリラとは、その持っているエネルギーが全くつりあい、対等になってしまったかのようで、となれば点に集約されたゴリラの方がそのテンションは強い。いわばゴリラに目は支配されている。

高野素十の《ひつぱれる糸まつすぐや甲虫》の、真っ直ぐな糸のようなものが、語り手とゴリラとの間に不意に組織されてしまった格好だが、観覧車はその間にも回り続け、その緊張をゆるやかにはぐらかしてゆく。ほどなく観覧車は地上に戻り、ゴリラは視界から消え去ることになるだろう。それを予感しつつも、語り手は、神の視点じみた高所から、しかし自力で移動することもさしあたりできず、宙吊りになったままだ。

視野への予想外の闖入者「ゴリラ」は、滑稽にも共感にも至ることなくその手前で止められ、語り手と感覚的につながり続けているのである。「ゴリラ」が風景のなかの点として「ぬくし」となりおおせるには、この距離と偶然が必要だったのであり、この奇妙な関係は、俳句という形式と出会うことなしには、気づかれないまま潜在したきりになっていたかもしれない。

句集『プレイ・オブ・カラー』(2016.10 ふらんす堂)所収。

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