2016年10月5日水曜日
●水曜日の一句〔齋藤愼爾〕関悦史
関悦史
枯山から葬の手順を指図せり 齋藤愼爾
既に死んでいる立場から、自分の葬儀の手順を指図しているというのが、さしあたり妥当な句意ということになるのだろう。死んでいながら葬儀のあれこれにこだわるあたり、まだ成仏できていないどころか、そろそろ妄執の域に入るが、こだわりの対象が遺産や人事でない点は、脱俗の徒であるともいえて、死後の話なのだから当然と言えば当然なのだが、実利を放り出して儀式の形式に執しているところなど、スタイリッシュな人物なのではないか。その過度のスタイルへのこだわりが、はたから見れば滑稽ともなり、グロテスクともなるのだが。
死後の話と見た場合、「枯山」はその比喩や象徴であることになるが、そうした説明に終わる言葉としては、枯木のひしめく山という場は、「空」や「あの世」に比べて、錯雑たるところ、枯木のように細った身が軋んでいるような妖気があり、古代の殯(もがり)の最中の身体のような、奇妙ななまなましさがある。また「指図せむ」と先々の意志をあらわすのではなく、「指図せり」と既にその渦中にある句形となっている点もそのなまなましさを強める。
生身はまだこの世で動きながら、その本質的部分は既に他界しているという、非直線的な、重層した時間感覚と生命感覚を詠んでいるが、その、あの世この世の位置関係が、たとえば永田耕衣のような無限の球体じみた包摂性ではなく、歩いて行けそうな地続きの距離感を持ちながら、あきらかにつねの世ではない「枯山」との、直線的で、なおかつ同時に別次元の場という関係として提示されている点がこの句の特色だろう。世界観自体が、ふくよかさよりも細さのなかに凝縮させられている。
平地よりはいささか高いとはいえ、そちらはそちらであまり自由自在におのれを解放したり無化したりできる場でもなさそうである。その枯木の稠密なこみあいと静粛のなかに、からめとられてあり続けること自体に、多少の悦びがひめられていはしまいか。
『陸沈』(2016.9 東京四季出版)所収。
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