関悦史
古タイヤ燃えてゐるなり冬の暮 和田耕三郎
たまたま出くわしたという以上の意味はことさらないはずの景だが、句は重厚な感触を持つ。「ゐるなり」の屈曲にディレイのような効果があるのがその一因で、これが化学製品のタイヤが黒煙を上げつつ液化していくさまに、語調の上で対応しているともいえる。その上で「古タイヤ」と「冬の暮」が頭韻を踏み揃え、この二つの体言にはさまれつつ、炎上は重く進むのである。
焚火の慕わしさといったものからは遠く、冬の暮の闇を背景にして浮かび上がる一点の炎と化す古タイヤは、何やら終末論的な光景とも思えてくる。語り手がこの「古タイヤ」を、役目を全うして世を去る満足のうちにあると見ているのか、それとも炎上を無残と見ているのかは曖昧なままであり、どちらとも判断を下さず光景のみを描いてその両義的な感情をも丸ごと伝えるのが、俳句の一つの本道に沿ったやり方ということにもなるのだろう。
いや、そうしたところへ一足飛びに行く前に、「燃えてゐる」の一語の唐突に立ちふさがるような顕現性に目を止めておく必要がある。「古タイヤ」「冬の暮」の二語の間に起こりうるありよう、言い換えれば潜勢力として「燃えてゐる」には咄嗟に思いが及ばない。
その轟然たる最期の相をいきなりつきつけられる経験がこの句の核心をなしており、それがいたって平明な言葉に移しかえられているがための重厚さなのだ。
句集『椿、椿』(2016.9 ふらんす堂)所収。
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