2016年11月30日水曜日

●水曜日の一句〔宗田安正〕関悦史


関悦史









昼寝より起ちて巨人として去れり  宗田安正


入眠幻覚の逆というべきか、起ちあがるほどはっきりと覚醒していながら、その身は不意につねならぬ「巨人」となり、歩み去る。

去られてしまったからには、「巨人」は語り手から見て他者ではあるはずだが、この句の場合、はたから他人のさまを見ている句か、自身が昼寝から覚めての句かの区別はあまり意味をなさない。ここに描かれているのは、ドッペルゲンガー(自己像幻視)的に自身が分かれてゆく啓示的光景である。何が「巨人として」去ったのか、主格が無化されているのは、自己と他者にまたがる、そのいずれにも定義づけられない何ものかが去っていったからなのだ。

この夏の光のなかへ去っていく「巨人」を、語り手個人の生命を超えて連綿とつながり広がる「命」そのものと取ることはもちろん可能ではある。ドッペルゲンガーじみているとはいえ、季語「昼寝」は句に夏の陽光を呼び込み、怪奇小説的な不吉な滅びの予兆として「巨人」が現れているようには見えないからだ。

しかし個と全体をいきなり一元化してしまう生命主義の退屈な目出度さ(「大いなるものに生かされている……」)とは、この句は一線を画していよう。「昼寝」の日常性から「起ちて」の動作を経ての「巨人」という異様なフィギュア(形象)出現への飛躍には、そうした平板さには回収されない違和がある。その違和に「巨人」が去った後の明るさが染まる。むしろ夏の季霊とでもいうべきものが、語り手の身を過ぎったと捉えたくなるが、そうした短絡も謹むべきなのだろう。この「巨人」は何かの隠喩か寓意のような顔で一句に闖入しながら、何を指しているのかが分からない「明瞭な不可知」であってこそ初めて出現を許されるものだからである。この句を成り立たせているのは、そうした違和そのものだろう。


句集『巨人』(2016.11 沖積舎)所収。

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